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昔の貼り付けタイプのアルバムで写真の横にマジックやボールペンでメモが書いてあった

毎年八月に入ってからの二週間は、ポツダム宣言受諾・玉音放送があと二週間早かったなら何人死ななくてすんだのだろうと何度か思う。広島・長崎・ソ連進攻だけでも50万人以上が亡くなった。1945年11月を予測していた連合軍の九州上陸に対抗するための決号作戦では1万機の特攻機が予定されていたという。特攻を美化するひとへの私の言葉はいつも同じだ。「君にはショックなことかも知れないが、この世界に君はもともと存在していない。君の祖先は子を成す前に出征し、あそこに“英霊”として祀られているのだ。君はどこかの並行世界から紛れこんでしまったのだ」。特攻は八月になっても行われていた。現在の歴史よりポツダム宣言受諾がもしあと二週間遅かったなら君も私もいないかもしれない。降伏があと四ヶ月早かったら沖縄が地獄と化すこともなかった。

私の祖母はソ連対日参戦後に樺太の真岡から命からがら逃げてきた。私の母が生まれたのは戦後だ。ほんの少しのボタンのかけ違いやちょっとした運で、私はこの世に存在していなかったかもしれない。

生き残った方々たちとの同窓会の写真があるので祖母が樺太豊原実践高等女学校(ネット検索すると「実践」の文字がない記述が多い)出身なのはわかっているのだが、残された数少ない樺太時代の写真にはなぜか同じ豊原にあった藤川実践女学校の写真もある。こちらはネット上にほとんど情報や写真がない。

スマフォ・デジカメが普及し二十年三十年前の千倍万倍は子供時代の写真が残る。これは良いなと感じた画像は家電店などでプリントすることもある。ひとつ経験談を書くと、プリントするなら「日付」は入れたほうがいいってこと。元のデジタル画像データのExif情報を読むと日時はわかる。でもそんなのいちいち確認できぬほど数が増える。

複数のHDDとクラウドを同時になど手段をいくつか平行してバックアップしても不安はある。でもプリントはたとえ元データがなくなっても色褪せても残るときは残る。

昔の貼り付けタイプのアルバムで写真の横にマジックやボールペンでメモが書いてあったのを覚えている。自分の赤ん坊から幼児時代の写真の横に添えられた、あの手書きの風味があんまり好きじゃなくて──なぜだろう、自分が覚えていない光景があることに、そのメモの筆致から垣間見える感情の振れ幅に、奇妙な感覚を受けたのだろうか──どうしてそんなメモなど残したのかを子供時代には不思議に思っていた。自分が写っている、いくつかの写真をアルバムから剥がして別のファイルに入れ直したことがあった。

下記の写真は裏に何も書いていない。戦前なのは間違いないし、この中には祖母が写っているはずだが、どこで、いつ、なんの機会に撮った写真なのか、もはやわからない。写真は封筒にゴソッとまとめて入れられていた。祖母はもう二十年以上前に亡くなった。この文章に添えた写真はすべて祖母の遺品整理をしていた際に「自分が貰って良いか」と親戚に訊いて受け継いだものだ。「そんなのどうするの」と言われたが、どうするもこうするもない。私が貰わなければここに写った光景は全てなくなってしまうものだから。2021年現在、この写真にいるひとは亡くなっている方のほうが多いだろう。

小学生の頃、お盆に祖母の家を訪れた際に戸棚からこれらの写真をみつけ樺太の話を聞かせてとねだった。私は戦記物が好きだったので勇敢な脱出行のひとつでも聞けるかと思ったのだ。写真を見ながら真岡の想い出を話し始めた祖母は泣き崩れてしまい、私はうろたえた。「行方知れずや亡くなった人、もう会えない人がたくさん写ってて、ねえ」と言った。ソ連対日参戦の折、樺太から脱出できないまま亡くなったひとたちのことだった。私は生き残った者の孫だから脱出できた側の立場で話を聞くつもりだったが、祖母の記憶には脱出できなかった友人知人たちの顔が浮かんでいたのだ。年齢を重ねておばあちゃんやおじいちゃんになるとそういうことにどこか慣れているものだと思い込んでいた私はビックリしてしまったのだ。数十年前の写真がひとの感情を揺さぶる姿が怖かった。私の母や叔母(祖母の娘だ)の記憶が確かなうちにわかる範囲で詳細を訊いておきたいのだけれど、去年も今年も会いにいけていない。

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