〈ストリートスナップ〉と『湾岸ミッドナイト』

 〈ストリートスナップ〉について、少し自論があるという話を以前に書いた。いろいろ言葉を尽くして書いてみたが、自分でもピンとこない。結論から言うと、『湾岸ミッドナイト』(楠みちはる)を読んでいない者にはいくら言葉で伝えたところで、意味がないだろそれ・・・くくくッ(笑) だった。


 『湾岸ミッドナイト』というマンガがある。ものすごくシンプルに説明すると、改造して500馬力や800馬力をエンジンから絞り出しそれを受け止めるフレームと足回りのハイパワー車で250km/hだとか大台(オーバー300km/h)だとかの速度を出し、首都高速道路を走る者たちの物語だ。

 このマンガの特異な点として挙げられるのは、劇中で登場人物たちが何度も念を押すように、公道での常軌を逸した自分たちの行為を正当化〈しない〉ことだ。中盤からは、それが繰り返し描かれる。  
 伝わるひとには伝わるので、話はここで終えてもいいのだ。だけれど、マガジン購入されている方はせっかくだからもう少しつきあってョ。

(下記マガジン内の記事です。記事の単品購入よりマガジンのほうが購入した時点での金額で月末更新まで読めるので文字数が多いです)


 当初は読み切りとしてマンガ『湾岸ミッドナイト』が掲載された1990年2月の時代背景は、書店に並ぶ車雑誌やセルビデオなどで改造カルチャーが華やかなりし頃の直後で、そのムーブメントの熱狂の最中にいた作者の実体験も含まれていた。89年に日産スカイラインGT-R(R32)が登場し、乗ってみた作者は〈本当に300km/h出る(出せる)クルマが日本車から出てしまったと〉驚愕する。それがきっかけのひとつとなり、以前から構想にあった〈クルマを改造する男のコたち〉の物語が形になったという(『湾岸ミッドナイト C1ランナー』第12巻,〈あとがき〉,講談社,2012)。作者は連載中に、乗らなきゃわからないとポルシェ911RS(964)や993ターボGT2、日産スカイラインGT-R(32)やマツダRX-7FCとFDを実際に手に入れている。

 1990年に連載が始まった当初は改造車はグレーもしくは違法だったのが、その後、車の改造の規制も緩和され、レインボーブリッジを中心とする台場線が会通。ハイアベレージで走れる場所が増えたことに、作中では〈新しい場所が生まれれば新しい者が集まる そして量の増加は質の低下となる〉(『湾岸ミッドナイト C1ランナー』第8巻, 講談社,2011)と述べられる。

 サーキットではない一般公道における競争〈公道レース〉〈バトル〉において、競争のため速度を出している自分たち以外の、相対速度が100km/hも200km/hも違う一般車を障害物として〈邪魔〉な存在だと感じる価値観は登場人物たちによって明確に否定・・・・・される。それどころか〈いつも心の中で負い目みたいなモノも感じていました。なんとなく社会に悪影響を与えている気もしてましたしね〉(『湾岸ミッドナイト C1ランナー』第12巻, 講談社,2012)と、作者自らもあとがきで心情を吐露している。

〈お前はクレバーな男だ 自分がおかしいことを知っている  公道で300km/hオーバーを求める それがいかに狂った行為かちゃんとわかっている 大事なコトだ〉

(『湾岸ミッドナイト』第04巻, 楠みちはる,p200,講談社,1995)

〈一般車を事故に巻きこまない 走る時間帯はウィークデイ未明 暴走族じゃあない 純粋に走りを追求している くくく・・そんな理由いくらつけてもムリなコトだ 公道300km/hオーバー どう考えたって反社会的で狂った行為だ 立派な犯罪者だ 自分自身がそれを一番わかっている わかっていながらやめられない 大事なコトだ〉

(『湾岸ミッドナイト』第05巻, 楠みちはる,p56.57, 講談社,1996)

〈いくら世の中がチューニングカーに優しくなっても やっぱりアル中は少ないだろ? 酒と同じよ キチンと楽しく酒を飲める人間はすばらしいよナ だけど酒に溺れ人生を狂わせそれでも酒を飲む その世界は絶対にわからない チューニングも そう 中毒(ジャンキー)になってこそ いや中毒にならなければわからない世界がある〉

(『湾岸ミッドナイト』第07巻, 楠みちはる,p12, 講談社,1997)

〈「お前なんでチューニングやめたの?」「イヤんなったんだヨ 正当化することが 走り屋という言葉で暴走行為を正当化することが──」〉

『湾岸ミッドナイト』第09巻, 楠みちはる,p213.214,講談社,1997)

〈「昔と違って走れる場所もなくなってきたしナ・・」「まてまてそんなコトぁないだろ よーく思い出してみろ オレ達が10代のころも改造車が思いきり走れるトコなんてなかったぜ みんな夜の闇にまぎれて走ってきたんじゃねーか(中略)チューンドカーはレースカーじゃない モータースポーツなんかじゃあないのョ 絶対にみとめられない・・──いや 認められることすら拒否する非合法な公道上での行為なんだ」〉

(『湾岸ミッドナイト』第10巻,楠みちはる,p171.175,講談社,1998)

〈ムリですよ チューニングカーをいくら正当化しようとしても やっちゃいけないコトやっているんですから  ドコまでも認められない非合法の世界でいいじゃないですか 流行とか時代とか関係なくて──〉

(『湾岸ミッドナイト』第14巻,楠みちはる,p222,講談社,1999)

 ──これ……どこか似てないだろうか。特にデジカメやスマフォ普及後の〈ストリートスナップ〉に。まちをゆくひとに、ひとの姿に、表情に、カメラを向けて勝手に撮って物語を背負わせて作品にしてしまうという行為。まだRICOH〈GR〉が〈GR1〉というフィルムカメラだった頃から、オリンパス〈XA〉が持ち歩きやすく即座に撮れると評判だった頃から、テリー・リチャードソンが京セラ〈Tプルーフ〉を、アニー・リーボヴィッツがCONTAX〈T2〉を、植田正治が富士フイルム〈ティアラ〉を、荒木経惟がコニカ〈ビッグミニ〉を使っていると話題になった頃から、コニカ〈HEXAR〉のシャッターや巻き上げ音を抑えるサイレントモードが街中で周囲に気がつかれにくいと重宝された頃から──富士フイルム〈X100Ⅴ〉のプロモーションビデオが「盗撮」だと炎上した、つい最近まで、ずっと変わらないストリートの〈負い目〉。それがわからないひとはわからないままでいい。こういうモノは他人から言われてどうのこうのというモノではないのだから。〈踏んだ〉結果があるだけだ。


 メーカーサンプルやカタログや写真家によるプロモーションで見かける写真に、外国の風景や現地で暮らす人々が多いことはご存知の通りだ。エキゾチックな、オリエンタリズムな、旅情を誘う市場や路上の写真。どうして外国なのだろうか疑問に感じたことはあるだろうか。あるだろうよ。無けりゃここに書かれていることはまったく理解できないはずだ。自分でも外国に行ったときに撮った写真は気軽に公開してしまう経験がある。
 ごく単純な話だ。その写真を目にした、写っている被写体に文句を言われる可能性が低いから。国内で撮ったストリートスナップは、何年寝かせたら大丈夫なんだ?──何年経っても〈大丈夫〉はこない、他人の顔はどこまでいったって他人の顔だ。

〈オレは思うわけョ もしクルマの神サマがいるのならドコまでやっていいんですか──って なにをやっちゃいけないんですかって チューナーもボディ屋もそして乗り手もドコまでが許されるんですか──(中略)クルマしかないんですョ──やっぱお金よりも女よりもクルマなんですョ──だからクルマの神サマ 時々目をそらしてください──まちがってる我々のコトから──〉

(『湾岸ミッドナイト』第23巻,楠みちはる,p154-156,講談社,2002)


 ストリートスナップを「やるな」なんて口が裂けても言わない。ただ、「やってみなよ」と他人には勧めない。いくらバイクで馬鹿みたいなスピード出すのが楽しいからといって、「バイクは愉しい」までは言うが「乗ったほうがいい」とは言わない。酷い事故も目に映してきたから。やりたければやればいい、撮りたければ撮ればいい、乗りたければ乗ればいい、ただ、自分が何をしているのかだけはわかってほしい、何ができるのかだけは知っていてほしい、わからないままやるのだけは避けてほしい。撮りながら、乗りながらでいいから。首都高ランナーなら、バイクでフルスロットルなら、カメラのシャッターを切ったら。『湾岸』調にいえば「遠慮せず踏めョ」。踏めないと感じたら降りればいい、at your own risk. そういうことだ。

〈最後まで踏み切るのも自由なら おりるのもまた自由── 押しつけたくはないし 押しつけられたくもない── もしこのエリアに約束事があるのなら一番は その自由の意思だろう 走るという自分の意志──  そしておりるという自分の意志──〉

(『湾岸ミッドナイト』第19巻,楠みちはる,p187.188,講談社,2001)

 『湾岸ミッドナイト』は、ある特定の条件において〈チューンドカー〉を〈カメラ〉に、〈乗り手〉を〈撮影者〉にそのまま置換できる。別のジャンルでも似たことがあるだろう。だからこそチューンドカーというニッチな狭いジャンルなのに1700万部もの大ヒット作品となったのだ。
 カメラに置き換えると、作中でのトヨタや日産の位置付けは、少し前のデジカメの世界ならキヤノンとニコンだろう。いまならそこにホンダとしてソニーα7の何代目か以降が加わるだろうか。ポルシェは勿論ライカで、ブラックバード空冷ポルシェ911(連載初期は930、途中で964設定に)はさしずめ最後のCCDモデルM9あたりか。インプやランエボはMFT陣営、ロータリーはSIGMA FOVEONか富士フイルムXか──ってそういうことじゃなくて。
 作中での〈チューニング〉は、サムレストやリグや延長グリップや速写ストラップといったカメラのアクセサリーとは重ならない。ひと昔前なら、並んでの〈記念撮影〉のときにしかシャッターを切らなかった〈撮影行為〉そのものを指す。
 シャッターを切ったあとに現像・プリントとあいだにコストが挟まれた時代とは違う現代。デジカメやスマフォ以降、あまりにも公開がイージーになった時代であっても変わらないのは、〈街中でいいなと感じた風景にシャッターを切る行為〉はそれがいつまで経っても〈日常〉の行為ではないことだ。それがインスタグラマーでもプロの写真家でも。世の中の写真というものの九割はいまでも身近なひととの〈記念撮影〉や旅行やイベントの〈記録写真〉だ。それ以外は、〈普通の写真〉ではない。

〈世の中を走っているのがクルマなら オレ達が走らせているのはクルマじゃないんだ〉

(『湾岸ミッドナイト』第16巻,楠みちはる,p77,講談社,1999)


 センサーサイズ? 単焦点ならではの光学性能? MTF上の分解能? 画像処理エンジン? raw現像?──数字上のスペックは意味があるときとそうではないときがある。GRがデジタルになったとき「GRにズームレンズつけてよ」と森山大道がメーカーに要望したという逸話。森山は一時期、画素数1602万画素、センサーサイズ1/2.3型、25-500mm相当光学20倍ズームのCOOLPIXS7000(2015年発売)という、同時期に出たカメラと比較してもけっして高性能とはいえないファミリー層向けの「だいたいなんでも撮れる」コンパクトカメラを使っていた。いまなら中古で2万円以下で手に入るだろう。撮れるひとは撮れる。(個人的には森山がデジタルにそしてカラーに移行した直後の写真は好みではなかったけれど、それはまた別の話だ)

〈オレはサ テレビが好きなのョ バラエティがいいよナとくに 仕事から帰ってこむつかしいドラマなんか見たくねーもんナ おもしろおかしくてテキトーに笑えてできるだけ頭もつかわず でもサ 他のコトはそーはいかないよナ なかなか 仕事とか人間関係とか大きくいって人生とか・・・・おもしろおかしくじゃ済まないもんナ
ていねいにつくられたドラマみたいに時々はちゃんと考えなきゃ理解できない クルマもそーだろ── ただおもしろおかしくじゃあ── 結局 何もわかんないだろ────それじゃあツマんないよな──」

(『湾岸ミッドナイト』第20巻,楠みちはる,p213-215,講談社,2001)

 一般的な世の中の規準は〈スナップ 肖像権〉〈公共 撮影 許可〉だとかで検索すれば、法的根拠も過去の判例もいくらでも出てくる。〈公益社団法人 日本写真家協会〉にて、元『アサヒカメラ』編集長が「令和の時代のスナップ撮影に必要なこと」という文章を寄せている(なぜかリンクが貼れないので「令和の時代のスナップ撮影に必要なこと」で検索すると出てくるPDFを参照のこと)。
 アマチュア写真家からの投稿を記事にしてきた『アサヒカメラ』誌(残念ながら休刊した)は、たびたび肖像権に関する問題提起をしてきた。リンク先にはつまるところ〈一定の配慮〉が必要だとしか書かれておらず、それは〈マナー〉の領域だ。

〈ルールってあるわけだろ ホラ どんなモノにも コレは絶対やっちゃダメとか コレは守れとかそーゆうの
ルール違反の走り繰り返しててナニ言ってんのってなっちゃうけど そーゆう走りだからこそ守るルールはある そう思ってたのョ
でもある時フッと思ったワケ
あ・・それルールじゃないよナって ルールってつまりまわりに対しての まわり・・・との約束事だろ ちがうよナ それじゃあないよって・・外に対してではなく内側てゆーか・・まわりに対しての自分・・との約束事だろう ルールじゃあなく 言うとすればマナー ルール違反はするけどマナー違反はしない 公道300km/h 自分との約束事──〉

(『湾岸ミッドナイト』第29巻,楠みちはる,p142-144,講談社,2004)

〈雨宮:そっ。オレたちはしょせん世間様からは認めてもらえない、狂走族なんだから!〉

https://www.excite.co.jp/news/article/Clicccar_657718/


 結論はハッキリしている。(アクセルをそれ以上)踏むか踏まないかのどちらかでしかない。カメラを構えるか構えないか。そこはサーキット撮影スタジオではなく、公道まちなのだ。ストリートスナップの大家であるソール・ライターやウィリアン・クラインや森山大道を追うのなら、許されているのか、赦されていないのかを決めるのはいつでも自分自身だ。



 これは余談だ。富士フイルムX-Pro1を発売直後にメーカー貸し出しで触ったことがある。XF18mmF2 / XF35mmF1.4 / XF60mmF2.4が一緒にあった。いまや名レンズとされる〈XF35mmF1.4 R〉。当時の私は良さがさっぱりわからなかった(発売後しばらくはなんと5万代で新品が買えた。いまではヤレた中古も6、7万円はする)。「なんだこの遅いジーコジーコしたAF、レンズ自体も重過ぎる、ピントのピークも掴みづらいし、開放でのボケも不安定だ」と。
 そのずっと後に同じ焦点距離で少し暗いが小さくて軽くて安くてAFも速い、XF35mmF2 R WRが出て、私は富士フイルムのサービスセンターでF1.4とF2の両方を借りてみて、当時使っていたX-T2に装着し半日使い、35mmF1.4Rというレンズに宿っていた〈魔法〉がF2ではすっかり失われてしまったのを体感した。普通に使うならF2のほうが〈便利〉だろう。画はシャープだしピンが抜けることも少ない。しかし100枚撮ったとき90点はF1.4が30枚、F2.0は80枚だったとして、120点が1枚か2枚あるのは、重くてタルいF1.4のほうだろう。

〈車は使い捨てのライターとは違うよな 仕事を変わるのもええ 改造車に乗るのもええ さらにこのままこの街に根づいて生きてゆくのもええやろう すべてはお前の自由や ただ いつまでも車の好きなお前でいてくれんか〉

(楠みちはる『湾岸ミッドナイト』第04巻,講談社,185p,1995)

 最後に私が〈踏んだ〉写真たちの一部を。


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