菊嵜了『ミラー』

 〈文学フリマ〉にブースを出さない代わりといっちゃなんだけど、短い文章を。文芸誌『エリーツ9』に『安全ピンと滑り台』という文章が載っています。



菊嵜了『ミラー』

 乗っている子乗せ電動アシスト自転車にはハンドルの左右にサイドミラーをつけている。ホームセンターの自転車用品売り場で買った580円のと980円のを。左には魚眼レンズのように視界が広く小さいサイズ。右にはひと回り大きくてバーのサイズが長いモノ。右のミラーは左につけたモノより視界が広くはないが距離感が正確だ。左後方は広い視界、右後方は距離感が正確、これが自分にはあっている。ミラーのバーは最初は原付バイクについてるような固いタイプのを選んでいたが、道の状況によって咄嗟に角度を変えやすいのと歩行者に当たる可能性も考えて、今はグニャグニャ曲がるタイプのバーに変えた。子乗せ自転車は後席の屋根カバーが車体の左右に少し張り出しているから強い風のときはそれが邪魔して把握している車幅感覚と少しズレる。ハンドルを握った両腕の肘の先を後席のカバー込みでの車幅にアジャストし、サイドミラーはそこからはみ出さないように取り付けする。
 バイクに乗っていた時期が長かったので、走行中に後方が見えないことに恐怖感がある。まちを走る自転車をみて《どうしてミラーがないのに怖くないんだろう》とすら感じる。
 車道の端を走っているときに後方から来る車からの距離、歩道で走行ラインを変更する際に後方からスピードを出して走ってくる自転車がいないかどうか(←本当は自転車の歩道走行はダメだけど現状としては車道だけを走るにはあまりにも危険だ)、信号待ちのときに後ろに自転車や歩行者がいないかどうか、チラとでも確認しないと怖い。
 車道から歩道へ、歩道から車道へ移るときはミラーと振り返りでの目視でダブルチェックをする。目視確認はバイクのときの癖がそのまま身に染み付いている。目視をしなかったが故に死角にいた車との接触事故を起こしたバイクを何台も目にしてきた。ミラーは子が自転車で後ろからついてくる際、身体ごと後ろを振り向かずにその姿を確認できるのにも重宝している。身体を捻ってばかりいると腰痛になる。

 前をゆく自転車が速度を落としたら、そこになんらかの理由がある。なのに、何故かその理由を確認せぬまま〈遅い〉と判断して抜こうとする自転車がいる。
 先日、歩行者と歩行者のあいだを抜けようとする自転車が前からきたので、先にその自転車を歩行者のあいだへ通そうと速度を落とした私の自転車を後ろから追い抜かそうとして事故を起こしそうになったひとがいた。心配するよりも、正直なところアホか?と思った。前方視界が悪いのに追い越し?ブラインドコーナーでセンターライン割って抜かすようなもんやで、峠でアホがやるパターンの正面衝突やんか。まちにはアホかと感じる自転車が山ほどいる。
 私は(子乗せや児童の自転車を除いて)前から並走してくる自転車は避けない。完璧なまでの道交法違反なのにどうしてこっちが避けると思い込んでいるんだ?と疑問すら抱く。走行ラインを変えない私をすれ違いざまに怪訝な目で見るひともいる。
 赤信号で停止しているとき信号を無視して前からやってくる自転車の走行ラインは勘定に入れない。透明人間として捉える。信号無視はそのひとの判断で勝手にすればいいのだが、ルールを逸脱しているならば、逸脱するなりのマナーがそこにあるだろうからだ。信号無視するならば他の自転車や歩行者を自ら避けなければいけないし、他の自転車の走行ラインや歩行者の前を横切ってはいけない──と私は考えている。青信号になった瞬間真っ先に走り出した私の自転車の前方数メートルには何もないはずなのだから。
 〈止まれ〉の一時停止交通標識が、車だけではなく自転車に適用されるのを知らないひとも多い。免許を所持していないのか優先道路という概念を知らないとしか思えない運転をする自転車もいる。そう、自転車は軽車両なので跨ってペダルを漕ぐのは〈運転〉なのである。ヤベェのが前から来たと感じたときは完全に停止して両足をつく。停止状態だし、少し腰をサドルからズラせばこちらは押し歩きの歩行者、衝突事故時の過失割合が大幅に変わる。

 自転車についてつらつらと書いていたら、以前にあった出来事を思い出した。



 駅にいた。夜だった。その小さな駅の改札前にある構内通路は北口と南口とが繋がっていて、さほど広くはないが通り抜けられるようになっていた。その通路で自転車に跨り、改札から出てくる友人を待っているかのように、くるくると同じところを回りながら走行する少年がいた。パーカーのフードを深く被っていた。とっさに「ここはあかんで!」と叱咤の言葉が口をついてでた。当時の私はベビーカーでの外出が多く、公共スペースでのトラブルに、ものすごく敏感になっていたのだ。マナーではない、具体的な危うさ。



 メガネで髭を剃ってるときと、コンタクトレンズで髭面のときで、エスカレーターで後ろから「すみません(おい片側空けて歩いて抜かさせれや)」と声をかけてくる割合の違いに苛立ちを感じていた。
 エスカレーターの空いてる側に立っていたとき後ろの大人が指をハンドレールにコツコツコツとやり始めたので後ろを振り向いて「なんですか?」と尋ねたことがあった。相手は無言だった。
 子の手をひいて横に並んでエスカレーターに乗っているとき後ろから「空けてくれませんか」と言われたので「なんで?」と答えた。「急いでいるんですよ」と返されたので「エスカレーターを歩いて短縮できるタイムって何秒?タイムアタックしてるん?エスカレーターを塞いでる奴がおるって駅員に突き出すならええですよ、行きますよ」と答えた。
 子の手をひいているのでエスカレーターを降りるときは慎重になる。一段もあいだを開けず後ろにいたひとはその慎重さに戸惑いを見せる。車間距離を空けない車は前方を走る車の急ブレーキに対応できない。後方から衝突した方が過失割合が大きい。エスカレーターで後ろから来るひとは私の肩にぶつかりながら抜いていく。私は《まちなかで歩いてるときも肩をぶつけて通り過ぎてくんかねあのひとは。なんでエスカレーターやと許されると思ってるんやろう》と不思議に思う。「おう兄ちゃん、ひとにブツかっといてそのまま行くんかい!あー痛てて痛ててこりゃ骨がいってるかもなァ」などとチンピラコントでもしようか。
 エスカレーターの片側を空けるためにホームで渋滞をおこしているひとたちを見ると、ちゃっちゃか乗ってけやアホかと思う。エスカレーターの片側を空けるのも、その空いたとこを歩くのも、マナーもルールもなっちゃいない。マナーは自分との約束で、ルールは周囲との決まりごとだ。病院のエスカレーターですら歩くひとがいる。少しの接触でも大事になる怪我をしていたり、重大な疾患を抱えているひともいる病院でだ。何を考えているのかもはや意味不明すぎて恐怖すら覚える。



 駅の通路で自転車に乗っていた少年への叱咤に続けて、ここではそんなことしちゃあかんその理由を伝えようとしたとき、自転車を停めて深く被っていたフードをはずした少年の顔がこちらを向いた。背丈からは十五、六に思えていたが、顔は十一、二歳くらいに見えた。中東系の顔立ちに見えた彼の表情が、よくある類の反抗や敵愾心ではなかったので私は戸惑い、「ここは車椅子やベビーカーも通るから危ないやろ?」と続けようとした言葉がすぐに出なかった。そこには憂いが滲んだ目があった。
 少年は、「これ、わたしの、自転車です」と、少したどたどしい日本語で言った。
 私のとっさに口をついて出た叱咤の言葉が早口過ぎて、違う意味で伝わったのだと感じた。「──いや、いや……そういうことじゃないんや、ここは乗っちゃダメなところやで、赤ちゃんもおるし、ジイさんバアさんも歩いてるから危ないやろ」と弁解がましい言葉をゆっくりと重ねつつ──少年はそれを聞いて頷きながら自転車を降りた──私が考えていたのは、彼はこれまでに幾度その愛車が自身の持ち物ではないと疑われてきたのだろうか、ということだった。



 想像する。
 たとえば小松左京『日本沈没』ラストのように日本人が難民になったとする。自分はその難民地区で生まれた難民二世の少年だったとする。海外に金融資産を持っていたひとはごく一部だから世界中に散らばった日本人移民エリアは、その多くが貧困地区だ。ある国ではニュース番組や新聞やネット上で日本人移民は犯罪者かのような言説が蔓延している。日本人難民は、日本列島からきたスラングでレットウと呼ばれている。
 想像する。
 難民地区外の施設へ在留許可更新のために来た日本人たちがエスカレーターの下で片側を空けるためにたまっている。そこに警官が来て警棒で片っ端から殴り始める。「何やってんだテメェらレットウども、ここは日本じゃねえんだぞ」と罵りながら。《日本人はルールを守れないな、いやいやマナーがなってないんだよ、レットウはこれだから、差別じゃなくて区別だよ》と殴られている人々の横でクスクス笑う声がする。別の場所ではエスカレーターで「邪魔だから片側は空けろってんだ、この醤油飲みのレットウ、文句があるならクニに帰れ」と蹴られている者もいる。
 想像する。
 最近、難民受け入れが間違いだったと主張する政党が支持を伸ばしつつあり移民コミュニティ──チョーナイカイと呼ばれている──のあいだでは選挙があるたびに戦々恐々としている。税金は払っているが選挙権はない。チョーナイカイのあいだでは、旗ではなく武器を手に取り実力行使で現状と未来を掴むべきだという過激な意見も出てきつつある。近所で〈日本人だから〉という理由で不当逮捕されたり現地警官から拘束・暴行を受けて死んだひともいた。それは暴動を起こし、自分がそこに加わるには充分な理由たり得るだろうけれど──自分の次の世代には今の状況が少しでも良くなっていることを願っているが、日々の暮らしに疲れてしまっていて、何が正解なのか、どうしていいのかわからない。でもそれまでマジョリティ側にいることに慣れすぎてしまってた元・日本人である自分たちのコミュニティではデモも抗議活動も暴動も起こらないかもしれない。
 想像する。ある夜に自分は働いて金を貯めてやっと手に入れた自転車を盗難したモノだと疑われて警官に止められている。それはこの自転車を買ってからの二週間足らずで七度目のことで、「このレットウの泥棒野郎が」と罵られることに慣れてゆくのは卑下が過ぎると頭ではわかっているが、ガラス瓶の破片や花火のあとカスや流木や漂着ゴミが散らばっている砂浜を裸足で駆けろと命令されているかのような理不尽さに溢れている日常生活の中では、自尊心を保つなどという高級な趣味は優先順位が低い。肩を窄めて道の端を歩き笑顔を絶やさず〈良い外国人〉たる態度を身につけなければ酷い出来事が待っている。コンビニエンスストアのレジ係りの仕事中に笑顔じゃなかったと通報された隣人もいた。自分たちは無愛想であることすら許されていない。

〈了〉

〈2024年5月19日 記〉

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