写真はええよな
9月。所用で訪れたまちで、まだ時間に余裕があったので公園で一服していた。隣の隣のベンチにオッちゃんが座った。ニューヨーク・ヤンキースのキャップを被り首からAKB48のタオルを下げていた。どちらのファンにも思えなかったが、ひとは見かけによらないのかもしれない。杖をついて脚を引きずっていた。車にひっかけられて通院とリハビリをしてるのだという。挨拶を交わし、どちらからともなく話しかけたのだ。
昭和10年生まれの85歳、生まれは愛媛県宇和島で、七人兄弟姉妹の三男やな、七人いてまだひとりかしか死んどらんのや、すごいやろ。「終戦のときは10歳ですね」、うん、手先が器用やったからな、戦時中は疎開してきた子らに草鞋をつくってあげていたわ。裏の山で木の上に家つくったこともあるで、縄梯子で登れるようにしてな。親父も大工で、家にそのままおったら仕事が身につかん、厳しいところに行かなあかん、と十五歳で修行に出されてからずっと関西におる。一時期は四十人からのひとつかってな、いろんなとこに呼ばれてな、あれもあれもあれも建てたみたいな、な。松下幸之助の家も仕事したことあるで。
この公園は竹林でな、すぐそこらへんから向こうはずーっと稲や稲、一面、田んぼばかりやったやんか、で、おめちょしてや〜って女の人が立っててな。戦後すぐは演芸場もあったんやで。瓦葺きでな。娯楽がないからみんなして観にいってな。日活の映画館もあって裕次郎よく観たわ。そんで犬飼っててな、映画観るときは外に繋いどくやんか、すると他の犬と喧嘩になるんや。したら相手の犬の耳を片方噛みちぎってもうてな、相手の犬なんか闘犬で小結までいった犬で竜巻号って名前でな、そんなん九州からわざわざ持ってきて飼っとるのみんなヤクザやからな、◯◯組XX会のひとの犬でな、怪我させていうんで会いにいったら「引き分けにしといてくれえ」いうてな、まあ闘犬やから。大工仕事終わって完成したーいうたら施工主やら地元のヤクザやらで集まって酒飲むやろ、そういうときあの頃は大工でも懐にドスいれてったんや。酒飲んでると何が起こるかわからんからな。この公園のあたりでもな、むかしはヤクザのケンカあってな、ある日、若い奴が倒れてて死んどったわ。こーんな長さのカタナもっとる奴とかおったからな、こんなんやで。
——肩から下げた鞄の中に写真のアルバムが入っているのが目に入った。アルバムには、蝶の標本の写真、盆踊りの写真、高齢の方々が集まって撮った記念写真、どこか旅先で小舟に乗っている写真、そしてカセットテープのジャケットが挟まっていた。それらの写真がどうして鞄に入っていたのかは訊きそびれた——
十五からずっと大工やからな、六十歳になって大学行ったんや、普通の大学ちゃうで、生涯学習いうてな。姉さんの婿が大学教授でな、ワシをバカにしよんねん、それが悔しくてな。読み書きもなんもできないひとらが集まって、年に一回旅行があってな。大学が病院の中にあって、医者や看護婦が引率してな、いや〜〜楽しかった。あ、この写真は大学の本棚や。漫画やけどこれで漢字覚えんねん。この蝶の標本の写真はその姉婿が集めとったやつやな。すごいやろ。
こっちはここらで昔やってた盆踊りの写真、「97年。23年前ですね」、すぐこのあいだみたいに思えるわ。ここに写っとるのこれうちの女房、もうボケてしもうたけどな。そういやニイちゃんこれから用事なんか、「このあと用事あって、それから病院いかなあかんのですよ」。そうかこれみてみい、財布の中、病院の診察券三十枚以上あるで、毎日薬十五種類飲んどるからな、みてみこの処方箋。「あの、ぼく写真ちょっとやっとるんですけど、お顔を撮らせてもらえないですかね」、おうええよええよ写真家か、写真はええよな、こうして話もできるしな、「パシャッ」。ほなニイちゃん話してくれてありがと。「お怪我、お大事に、リハビリがんばってください」。女房も痴呆やからな、まだまだ歩けないとあかんからな、ニイちゃんも元気でな。
別れを告げて自転車に乗っている最中、オッちゃんはあのアルバムをいつも大切に持ち歩いているのではないかな、と何となしに思った。
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