怖くなって水道の蛇口もホースもそのまま放り出して

 〈幸せはひとの数だけある〉っていうけれど、そうじゃないな。

 公園の石をひっくり返したとこにいるダンゴムシや、街路樹に集まっているチャドクガの毛虫や、毎年巣を作りに来る燕のためにネットを張っている軒先の家や、その巣の卵や雛を狙っている猫たちや、児童の興奮のために壊されてしまうアリの巣や、冠に編むために摘まれるシロツメクサや、河にかかる橋の下にぶら下がっていたのが夕方になって団地のあいだに飛び交うコウモリたちや、ゴキブリホイホイにペッタリくっついて身動きとれぬまま産卵された小さな子たちや──命の場の数だけある。

 あれは、法事なのか何かの式なのか冠婚葬祭のどれかだったのだ。駐車場に黒塗りのセダン車が並んでいた記憶がある。私はジャケットと短パンとボタンのついたシャツだった。幼稚園児か小学校低学年だった。大人たちが忙しかったり雑談や飲食に夢中だったりで、私は寺か会館かどこかの庭園でひとりだった。そして私の自由にできる場所に水道の蛇口とホースがあった。私は植え込みを囲ったレンガ沿いにアリの巣を見つけ、ホースでそこに水を吹きつけていた。最初は面白かった。ホースからの水圧でどんどんアリの巣穴が壊れて中からアリたちがでてきて想像していたよりも穴は横に広く縦に深くて、嗜虐心にも似た興奮をしていた。
 しかし、ホースから発射される水圧は、ついにアリの巣の卵らしきものが置かれている部屋に到達してしまい、私は穴から出てくる水に混じった卵を目にし、何か恐ろしいことをしているのだという想いに駆られ、怖くなって水道の蛇口もホースもそのまま放り出して逃げたのだ。


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