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茶色い惣菜ありまして

 台所に立つ時間がなかった。近所の惣菜屋に寄る。オリジン弁当をよく利用していた頃に海老とブロッコリーのサラダがとても好きだった。いまでもきっと食べるとうまいはずだ。しかし、いつのまにか買うのは茶色い惣菜が多くなった。

 子供の頃、「ああ、昨日と今日でおれは味覚が変わったのだ」と実感した夜があった。その13か14歳は突然炎のごとく冷奴が食べたくなり、夜中に冷蔵庫から豆腐をとりだしてパックのまま豆腐の真ん中に穴をあけ、そこに醤油をそのままかけ、レンゲですくいながら「こんなうまいものがあったのか」と感心した。それまで味噌汁の具ならホウレンソウやネギが好きで、豆腐はどちらかというと嫌いなほうだったのに。翌日の晩飯には湯豆腐をリクエストした。そして「やっぱり変わったんだよおれは、細胞が入れ替わったのだ」と再確認した。

 自身の身体の変化──私の年齢だともはや変化というよりも老化だが──に衝撃を受けた例として語られることの多い出来事に、陰毛の白髪というのがある。自分にそれが起きた時のことは、さっぱり覚えていないが(たぶんなんとも思わなかったのだろう)、鼻毛に白髪がでて驚いたことは覚えている。 爪先で摘まれた毛を見たとき、白い鼻毛って綺麗だと思った。

 再来年の受験を悲観するあまりにうわの空で今日の弁当を家に忘れてくる中学二年生がいたら、バカやってんじゃないと叱るだろう。

未来には楽観を・現在には悲観を、くらいがちょうどいい。

「悲観」というのは絶望のあまり泣き暮らすことではなく、失敗やトラブルを想定して、目の前のことをやれる範囲からやってゆくということだ。下調べ、準備、用意、プランBの立案、限られた時間内での優先順位の確定、これらすべて「現在には悲観を」へ含まれる。

楽観と悲観の順が逆になって、未来には悲観を・現在には楽観を──だと弁当を忘れる中学二年生だ。ぼんやりとした未来への不安で、いま現在なにもする気になれないなら、不安の予感が的中する確率が上がるだけだ。楽観にはかたちがなく、悲観には明瞭な輪郭とディテールがある。未来への悲観にさほど効果がないのは、出来事が目の前に迫ってはおらず情報に乏しく、優先順位やプランが白紙になってしまう可能性も多分にあるからだ。先に書いたように、ある夜に突如として味覚がガラリと変わってしまうこともある。

だから、未来には楽観を・現在には悲観を。あまり使わないお皿は食器棚の奥へ、毎日使うお碗は手前へ。とつぜん豆腐が食べたくなった夜のために冷蔵庫には豆腐を──と書きながらも、いま切らしているので豆腐の写真がない。

 鼻の奥が痒い。そういえば忙しさのあまり身だしなみに気をつかう余裕もなく、もうかれこれ二ヶ月ほど鼻毛を放置していたような気がする。きっと長いのが1本か2本あってそれが鼻の奥をくすぐっている。いまあらためて鏡に向かうと、私の鼻毛はもう白髪のほうが多いくらいだ。風邪対策でこのまま伸ばしっぱなしにしようか。

(上の写真は、杭瀬中市場にある「とうふ専門店 宮島庵」の、揚げおぼろ豆腐。電子レンジで温めてから生姜醤油で食べると、これがもう)

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