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鮎、水なす、ブリ、缶コーヒー

「おいしい」は化学感覚で生理学的な現象、「苦手」は感情、共存が可能だ。「まずい」けど「好き」もある。たとえば缶コーヒー。以前にひとと話していて「タバコ吸わなかったら缶コーヒー飲みます?」と訊かれて「飲むわけがない、だってまずいでしょう、でも好きですよ」と答えた。

子供の頃は、鮎を食べたことがなかった。家の近所にある魚屋やスーパーマーケットに売っているのを見た記憶がない。マンガの中でやけに高級そうに登場するフィクショナルな食べ物だった。関西に来てからは養殖のモノが安くなっていると、たまに食べるようになった。ヘッダ写真のなどは半額で四匹で500円以下になっていた。四と匹という字は似ているな。間違い探しかのようだ。

私は北の方に生まれ育って、家を出てからはしばらく関東に住んでいて、この十年と少し関西に住んでいる。それもあるのか、地域差か養殖で安価になり入手しやすくなったかの判別がつかない食材は少なくない。たで酢で鮎を食べてみて、それが本当に鮎との相性が良いとは思っておらず、以前はこけおどしだと思い込んでいたので新鮮だった。その食材や料理が特定の方法で食べられているには理由がある。そんな単純なことが腑に落ちたのは三十歳を越えてからだった。

水なすは今となっては私の生まれ育った土地でも手に入るだろうか。塩とオリーブオイルと梅酢や梅ドレッシングで食べるのが好きだ。関西のひとでホヤを苦手なひとが多いことには驚かされた。全体としてスーパーなどで扱っている貝の種類も少ないような印象がある。そのかわり蟹、特にズワイガニの人気がとても高くてシーズンにはJRの駅などに蟹を食べに行くツアーパンフやポスターがずらりと並んで壮観だ。立ち寄ったスーパーでクリガニが大量に半額になっていて「蟹は蟹でもこっちの蟹は人気がないんかな」と感じたことがある。一杯あたりカップ麺みたいな値段で活けだった。ふたつ買うとそれぞれミソと内子だった。身はダキ(脚のつけねの胴体側)と甲羅の裏側のベロベロとした内張りがいちばんうまいところなんかは、やはり小さなケガニだ。私は日本国内の蟹ならケガニ至上主義者なのだ。タラバガニとズワイガニとケガニが一杯づつ並んでいてどれもモノがよくて、どれかひとつ持って帰っていいと言われたら少しの迷いもなくケガニを選ぶだろう。

これほど流通が発達しても地域物産展ですら手に入らない食材はあって、私も他地域のひとは口にしたことがないか存在を知らないものを子供の頃にあたりまえのように食べていたはずだし、食文化というか「食卓文化」というのは地域差も家庭の差もある。特に味噌汁や雑煮や漬け物では保護者の出身地域が大きく関係するのに実感を抱くひとが多いのではないか。


私が、塩鮭と焼鮭を弁当などに入ってるのを除いて自ら食べたくなり買って食べた回数を数えると片手で事足りるだろう。子供の頃に、もう一生分、食べた。嫌なおかずの筆頭だった。大人、特に年寄りは塩辛いこれが好きだったから食卓によく並ぶのだ。懐かしさもない。鮭フレークなどは、前日の焼鮭の残りの印象が強すぎて、いまだに苦手だ。まったく普通に食べれるし、しっとり柔らかくてザクザク大きいのがおにぎりに入ってるとおいしいね、とは思うけれど苦手なのだ。おいしいと苦手がまったく矛盾せずに同居しているのである。幕の内弁当を買って大きな焼鮭が入ってると、KFCの衣と背肝のような感覚で、皮と血合いだけ食べたい。

先日、めずらしくこちらから訊いたわけでもないのに子が自ら保育園での食事のことを話題に出して、「今日のな、お昼の鮭がおいしかったんや」と言った。何かがおいしかったことを聞くのは楽しい。「前にあそこで食べたあれおいしかったなー」という言葉を聞くのは嬉しい。子が口に出す中では食べたものが良かったという話題が聞いていて最も喜びを感じる。その私の喜びという感情が先天的なものなのか後天的なものなのかわからない。

子は魚の皮が割合に好きだ。だいぶ前にブリを焼いたとき皮を嫌がって食わなかったことがあったので、次の機会には焼いてからブリの皮を外して食卓に出したら文句を言われたことがあった。「嫌いやと思ったんや」「ちゃうで、◯くん皮が好きなんやで」。そういう会話は好きだ。

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