傲慢だった、あの頃の僕へ。
今朝、こちらの記事を読みました。
序盤も序盤で「うっ…」と目を逸らしたくなる文章が出てきて、一度ブラウザを閉じた。そして、ひと呼吸し、再びページにアクセスして読んだ。
私は29歳から30歳にかけて夫とともに旅をしていたのだけど、安宿でよく世界一周中の日本人バックパッカーに出会った。
彼らの多くは「一度きりの人生、やりたいことやらなきゃ!」というような台詞を口にする。
中には、真面目に働いている人のことを、
「満員電車に揺られてやりたくない仕事する人生なんてつまらないよ。やりたいことがない人とか、やりたいことがあるのに言い訳ばっかで踏み出せない人とか、ほんとダメだと思う」
と切り捨てる人もいた。
ずいぶんと傲慢だなぁ、と思う。
その人がやりたいことをやって生きるのも、自分の人生に満足するのも、おおいに結構だ。けれど、「そうじゃない人」をディスる権利なんてない。他人の生き方を「つまらない」「ダメ」といった言葉で否定するのは傲慢だと思う。
それに、自分の人生に満足しているなら、他人がどういう生き方をしていてもどうでもいいじゃないか。わざわざ「そうじゃない人」をディスるのは、そうすることで自分の選択を肯定し、安心感を得ているのでは?
出典:「やりたいことをやる人生」と「そうでない人生」に優劣はない|吉玉サキ
数年前までの、僕の姿だった。
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若気の至りだったと、安易に美談っぽくしてしまうことは簡単だ。でも、やっぱり「傲慢だった」と素直に認めないといけない。じゃないと、次のステージに進めない気がする。
吉玉サキさんの指摘する通り、当時の僕は自分の選択を肯定して安心感を得たいだけだった。社会のレールから飛び出して、先の見えない道を歩くことが不安で不安で仕方なく、自己肯定をするために周りにマキビシを投げ続けてた。
未熟で傲慢で、自分の人生のケツも拭けないような、情けない奴。それが当時の僕である。
でも、たぶん当時に戻っても、きっと同じようにしか振る舞えないんだろうなと思う。あの時の、あの当時の僕には、それしか取れる選択肢がなかったから、やっぱり自己肯定をするために周りにマキビシを投げ続けてしまうはずだ。
とことんまでに自己中心的な考え方かもしれないけど、仕方ないことだと思う他ない。それしか選択肢がないんだから。
だから、いまの僕は、当時の僕に向けて、投げかける言葉がない。(紛らわしいタイトルを付けてしまったな)
いまの僕にできることと言えば、傲慢な若者が撒き散らしたマキビシを拾う存在になることしかないんじゃないかと思う。ほんと、それしか思い浮かばない。
その具体的な方法は、パッとは思い浮かばない。ひとつは「記事を書き続けること」かもしれないし、ひとつは「教育に携わること」かもしれない。きっと答えは無数にある。その中から、僕は僕なりの方法を模索しながら、当時の僕の撒いたマキビシを拾い続けていく。それが傲慢だった僕の義務だ。
傲慢な若者は、いや、傲慢な人間は、その時は傲慢な振る舞いしかできない。だからこそ、かつて傲慢だった人間が、そのケツを拭いてあげる側に回る。そうやって世界は、螺旋状に少しずつ進んでいく。
そうやって、人は大人になっていく。僕もまた、大人になった。
いつもと違うテイストで書いてみました。
では、またあした〜!
おまけ:来週の僕は・・・
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