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夢を叶えよう。先人たちへの感謝を。

こんにちは。言海祥太です。

自由意思で何でもできる時代、
年齢がいくつでもいつからでも何でも生まれ直し、
何でもできる時代、
夢もかなえられる時代の今を創ったのは先人達。

2年前に発売した拙著「自己啓発って言いたくないけど、でも誰かを啓発する言葉」(かざひの文庫)の後半では、知覧特攻平和会館に初めて行った際に衝撃を受けたエピソードを書かせていただきました。

数々の手紙を拝読して、特に頭を鈍器でぶん殴られて膝から崩れ落ちるような衝撃を受けた手紙をシェアします。

激戦の中たくさんの若者達を送り出した、飛行学校の教官も特攻志願しました。『教え子達だけ、行かせるわけには行かぬ』と。

29才の藤井一中尉でした。しかし、その志願は却下されます。

ゼロ戦の操縦を教えていたわけじゃなく、当時の軍人精神を教えていた教官だったからです。『飛行機に乗れない特攻隊員などあるか』と言われるんですね。。。

それでも志願します。

藤井中尉には妻子がおりました。

ある日、妻の福子さんは、夫の特攻志願を知り泣いてすがりついて、反対しました。

しかし藤井中尉は『俺が、行かずにどうする。本土上陸を許せば、お前達もこのままでは守れなくなる。今しかない。わかってくれ』と。

妻の福子さんは、夫のあまりにも固い決意を知り、生後4カ月の赤ちゃんと3才の2人の女の子に、晴れ着を着せ

『私たちが生き残っていては、心残りになるでしょう。お先に行って待っています』と、近くの荒川の橋から身を投げました。

翌朝、妻と子の冷たくなった遺体が発見され、藤井中尉は泣き崩れた。

翌朝、寝れないまま指先を、切り裂き血染めの志願書を軍に提出。

状況を把握した軍としても同情したのでしょう。特例で操縦のできない教官が、教え子の隊長に任命され知覧へと転属。

藤井中尉は前述した通り、操縦はできないため「二人乗りの飛行機」の後部座席に乗り沖縄へ知覧を離陸。

最後の電文、「我が突入せり」と宛先のない手紙が残っていました。

それは国の為とか一言もない、亡き我が子への手紙でした。


【藤井一中尉の手紙】

荒川の河原の露と消えた、お前達の命が愛おしい。
父も近く戦地で、立派な手柄を、立ててからお前らの所へ帰ってきます。
今度こそ、お父さんの温かい胸で抱っこしてねんねしようね。
一子ちゃんも千恵子ちゃんも、お母さんの事をよく聞いて、少しだけ待っていてちょうだいね。

教え子達の命の尊さ、そして奥様やお子様を守ろうとした中尉の最後でした。

当たり前すぎる話だけど過去があって今があり、そして今をどうするかで未来は変わるわけで。

自分がこの時代になぜ生まれてきたのか?
なぜこの国に生まれてきたのか?
そして自分ができることは何か?

自らの命の輝かせ方を今一度、考えたい、今日。

先人達が命を投げ打って日本の平和と永続を願い、戦いぬいてきた血と涙に満ちた足跡を忘れたくないために、この日を想う。

靖国に眠る戦没者や戦禍で無くなった方達が命をかけて、守ろうとした未来は、今の私たちが住む『平和で豊かな日本』です。

先人たちが築いた“今”に感謝。

自由意思で何でもできる時代、やりたいことが誰でもできる時代で、夢もかなえられる時代に生まれてきたのだから、

命に光りを灯そう。

戦争で亡くなった方々へ、哀悼の意を表します。
2022年8月15日

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