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この日の準備、光あふれる日への準備

【9月28日、午前中~午後】

 朝、練馬の「RAD」で髪を切る。店長がおばあちゃん子だったという話で和む。スーパーに寄って買い物。雨が降らなそうなので帰って洗濯。朝ごはん的で昼ごはん的な何かを食べて、包丁といで、バスタブ洗って、SNS でいろいろな人たちと交流して、落ち着きましたねさてさてさて今夜は。

【夕方】

 緊張。ゲロ吐きそう。職場で録画予約はさせてもらったけど、観なきゃ。
 長ネギの小口切りは心を落ち着かせます。洗濯機のグイングインも心を落ち着かせます。おえ。「再放送」でも緊張するのに「再編集」「再構成」だからなあ。17年前の本で、評価も定まってて、なのになんでそんななのお前って思われるのも、なんかだけど。おえ。
 まあ、おれとしてもこーゆー感じは初めてかもしれない。都度、緊張はしてたけど、こんなだっけ。いやこれほどじゃなかったと思うんだけど。

 2008年にEテレ「ハートをつなごう」で、「ゲイ/レズビアン」というテーマが加わって。ソニンさんと石田衣良さんが番組中で朗読して下さった。2021年にEテレ「理想的本箱」の「同性を好きになった時に読む本」回で選んでいただいた。

なのに、どうしてだろう。

 最終回だからかな。


【番組が終わって】

 視聴させていただきました……

 今回再編集ということでもあり、「映像の帯」(ドラマ部分)がどうなるのかという緊張も正直あった――当然部分的なカットがあってもおかしくないと予測していた――のですが、なんとそのまま流れて。トーク部分はまさにスペシャルで、未公開分を使用した「EDITION 愛」版でした。「同性を好きになった時に読む本」回とは異なるトークが聴けて、その幅允孝さんの語りの的確さ、温かさ……この二年間を胸に思い起こしながら聴き入り、感じ入ったのでした。再放送をご覧になる方もいらっしゃるでしょうし、あまり書けないのですが、あの本の出版に関わった者として、至福の時間でした。

 本当に、ありがとうございました。


 再放送もあります。10月3日(木) 午後2:35〜午後3:05 です。


 「最終回」という言葉が重くて、また新シーズンを期待してしまう。
 生まれたてのおっさん(山ちゃん)さんが「映像の帯」で使用されていた曲を教えて下さったので、それをたまに聴きながら希望をつなげようかな。


 オンエアを観ていたパートナーから電話がかかってきて、一時間半くらいしゃべっていたのでアップが遅くなってしまった。なかなか切れない電話だった。やはりこれまでの放送ともちがう感慨があったし、夢中で思いを語り合っていた。私より年上であるパートナーが「俺が子どもの頃にあのドラマ(映像の帯)を観ていたらどれだけ救われていたか分からない」と言った。それは取り戻せない時間についてではなく「時代の変化」についての表現だ。「これからの子どもたちは強く育つことができるはずだ」という意味であった。これから強く――そうあって欲しいと思う。この記事もなかなか書き終えられない――今後あの本について書く機会はそうそうないだろうなと思うのだ。寂しいのでもない。もうずいぶん書いてきたと思うし、今はただ達成感と幸福感の余韻の中にあるだけだ。満足すべきタイミングがある。

 懐かしい。砂川秀樹さんと会って、初対面はこの企画だった。ゲイのモノローグではないから、モノづくりをするときにいつもそうするように、いちど頭を空っぽにするため多角的に本を読んだ。小此木啓吾の阿闍世コンプレックスとかアダルトチルドレンに関するものとか、遠くにあって近いものを雑多に読み、張り付いたイメージを振るい落とした。音楽はゲイに関するものではないけれどもパレードソングにしか聴こえないものをよく聴いた。パッと思い出すのは福山雅治の「虹」だ。あの歌は光に満ちた世界そのものにも聴けるし、抑圧のなかでも損なわれない強靭さとも聴こえて、子どもたちは潜在的にどんな力を持っているだろうかとイメージを広げるために、そして作業中の自分を励ますためにも何度も聴いた。ネットでカミングアウトしているレズビアンやゲイを探してはメールを送った。あの頃、私から奇妙な依頼を受け取っていた同性愛者は大勢いる。返信をくれた彼らの多くが「何かしたい」と希望を示したが、内容が教師や親へのカミングアウトと知ると、それきりになった。親子にカフェなどで会えることもあったが、取り組める親子は少なかった。
 そんな風に苦労したにも関わらず、実際に親たちの葛藤が書かれた手紙を読むと「これにレズビアンやゲイは耐えられるだろうか」と危ぶみ、怖くなった。大丈夫だろうかと。しかし葛藤を避けてはならない。それに明らかにそれ以上の救いが、手紙にはあった。期待をはるかに越える力強い励ましが。当時34歳だったという若さもあったかもしれないが、私は同性愛者たちがいちどは傷に向き合うべきだと感じていた。自分のために泣く時間が必要だと思っていた。得られなかった愛情を軽視して通り過ぎた先に治癒はない。ごめんな怖いよなと胸の内に詫びながらも、でも読まなきゃダメだと思っていた。傷を認めて、癒えてくれと願った。「どうせ社会は」「どうせヘテロは」と言うことは傷を深めはしても癒さない。温かい言葉は苦しい。自分の親からのものでないなら苦しい。自分も心療内科に通いつつ、それでもその先にあるものを信じた。この親たちが我が子のためだけにこれを書いたと思うのか、そうじゃないんだよ、そこをちゃんと見てくれ――あの祈り。今もそのまま胸にある。

 役割を知りそれを果たす人々がいたと、私たちは知らなければならない。そして癒えなければならない。誰もがそうなのだ――手紙の中で母親は言う、「自分は学んできたなかで何も教えられなかった」と。その無念はしかし天啓のようであって、挫折した母親を真理に導く。そこで初めて、母親も労りを受け容れたのである。そして奪われていた母の位置に戻って行くのだ。その結果生まれた寄り添いを、人々は見た。それで、私は幸福である。




 

 

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