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「使い走り」

 その人を初めて見た時、「正義先生がいる」と思った。「正義先生」とは言わずもがな、ケストナーの児童文学小説「飛ぶ教室」に登場する舎監である。その時の直感がどうして訪れたものか、私自身にもいまだ分からない。その人は寄宿学校の舎監ではなく、作家で大学の教授だった。しかしまだ誰と知らない時に、ただ歩いて来るその姿を見て、ああ正義先生がいたと、なぜか感じたのだ。以来お見掛けする度に「おお正義先生だ」と胸に思った。のちに名前や経歴を知ったその人が「子どもの涙」というタイトルで本を書いていたことを知った。もちろん「子どもの涙」とは「飛ぶ教室」におけるキーワードである。それで自分が受けた第一印象が偶然ではなかったと分かったが、それから十数年に及んだ交流で「あなたは私の正義先生なんです」とその人に告げようとは思わなかった。むしろ告げることは禁忌になった。それはもちろん「子どもの涙」を読み、彼が正義先生その人ではなく――「飛ぶ教室」のマルチン・ターラー少年のように――正義先生に救われるべき子どものひとりだったと知ったせいであった。著作に親しみ経歴を知るにしたがって思慕も尊敬も深まるばかりであったし、私の中でその人はずっと正義先生として在り続けたのだが、彼もまたマルチン・ターラーだった、と――そう知ってしまえば、その人を「正義先生」と呼ぶことは憚られたのである。
 
 私の、つまらない遠慮だったのかもしれない。しかしその戒めは、自分が知る限り私は日本人であり、その人が在日朝鮮人だという、立場性にも起因していた。私は在日をめぐる抑圧構造において「抑圧側として配された者」である。マジョリティとしての自認が、たやすく垣根を超えようとすることを自戒させた。私は甘えを殺し、ひたすら差別を憎んだ。越えるべき今日を思い、迎えるべき明日を思った。明日があると思っていたのだ。
 でも、その人は死んでしまった。いつも思いを込めて「先生」と呼んだ、その人が。
 
 そのニュースを職場で聞いた日、あまりのことにどうしていいか分からなかった。その一日をやり過ごすために目の前にある仕事に集中した。しかし仕事が終わればすぐ一歩も動けなくなるほどの絶望が押し寄せると分かり切っていた。だから仕事の合間に紀伊國屋書店に在庫の取り置きを依頼した。レイモンド・カーヴァ―の「カーヴァ―ズ・ダズン」――その本は既に家に二冊あったのだが、「家に着くまでの間に必要だったから」新たに買い求めたのだ。収録されている「使い走り」という短編を読みながらであれば、家まで帰れるはずだと考えた。死に際して尊厳の扱われ方がいかにあるべきか、その小説は示している。その生に相応しい重みをもって、人は葬られるのだと、信じさせてくれる何かが必要だった――何とか息を吸い、吐き、足を動かし、家に辿り着くまでの距離を耐えるために。
 まず書店まで歩き、そこからはカーヴァ―に助けられて駅まで歩き、あとは文庫本に目を落としながら電車がどこかに自分を運んでいくのに任せた。だが何処に? 街の風景も人の暮らしも昨日の続きのように見えてそうではない。座席に丸めて埋め込んだ身体に本を抱いて、その人の波乱に満ちた生の終わりが静かであるよう、ただ祈った。その短編で起きていることから見れば、死は生からの解放であるのかもしれなかった――そう物分かりよく受け容れることは、この先もできないとしても。出会った誰彼をすぐ「素晴らしい人」と呼び胸襟を開く、いとけない魂をもつ人であった。とめどなく優しい人であった。私の母親の病状まで気にかけて下さっていた。小説を書きたいと言っていた。そうでしょうねとだけ私は答えた。発信すべきことに追われ続けた人生の終盤にさしかかり、他にも書きたい欲が出ても極めて自然なことで、理由を訊ねることさえしなかった。小説というフォーマットでしか伝わらないこともある――否、そんな御託はいい。彼は他の何者でもなく、真実、作家だったのだ。
 いつか心ゆくまで文学談義をしたいねと言って下さっていた。そんな時間はむろん楽しみだったが、私が何より待っていたのは、先生の新しいご本だったのにと思う。「書きなさい、事実だけを積み重ねることです」――そう私に教えた日、その人は自分自身に言っていたのだ。お前はまだ書かなければならないと、ご自身を鼓舞していたのだ。
 おれの正義先生。この世界に、あなたがいない。おれが誓いを破ってもいいんですか。おれに約束を果たさせなくていいんですか。あなたはもう、書かなくていいんですか。
 



 仕事の仕上げをいそぐ夜露が彼のマントを濡れそぼらせた
 歩哨は身じろぎせず 目は隣国の家々に注がれていた
 夕餉のにおい 子守唄 むつみ合う恋人たちの囁き
 ふたつの国の暮らしはよく似ていた 帰る家はどちらにあるか 安らぎは
 時間どおりに朝を呼び戻し 歩哨は帰宅と短い眠りを許される
 夢に落ちるそのあわいに どちらかの国で母親が子を呼ぶ声を聞いた
 


(2023/12/25)

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