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パンツ泥棒と対峙したときの話

 昔、あれは25年くらい前なのかな。東京、京王井の頭線に新代田という駅があって、その新代田駅からほど近い、住所にして世田谷区代田6丁目にあるアパートに住んでいたんですよね。東京ローカルな話ではあっても、「下北沢の外れ」と言えばイメージされやすいのかもしれない。賑わいから外れた閑静な住宅街だったのだが、この代田6丁目時代はよく事件が起きた。

 まあ偶然そうなっただけかもしれない。しかし、強盗、下着ドロ、霊現象……は、経験することになった。東京のどこに住んでもそんなの経験しないのに(東京はかなり安全な街だ)、あの頃は何だったのだろう。それでまあ、皆さんが関心をもたれるのは下着ドロの話じゃねえかなと、思うわけなんですけれども。

 先輩に書けって言われたのもあるんだけど、書いていいですかね。


 そのアパートはニ階建てで、10世帯くらいだったんじゃないかな。昼寝してたら窓の外を自転車が走るようなキコキコキコキコって音がして、なんでか「あ、来る」と確信めいて思った途端に金縛りにあって、部屋の隅でスーパーの袋をぐしゃぐしゃするような音がやまないのを、全く動けないまま聞いてた。霊感ってないんだけど、外を自転車が走るようなキコキコ音が走った時に異常を予感した理由は「その部屋が二階だったから」なんですよね。
 その二階ベランダに、いつも洗濯物を干していた。でも困ってたんですよね。いつしか干していたパンツが無くなるようになった。決まって白のボクサーブリーフ。

 この話は「男のパンツを盗むなんて」という笑いを呼び込むことがあるのだが、これは「私の」パンツが「あなた」にとって価値をもつかどうか意見されたくて話すのではないし、「男も性被害に遭う」という今更な話で盛り上がりたいのでもない。私がするのはフラットな「まあ困るもんは困る」という話に過ぎない。あの頃、私はとても困っていた。これはそんな話だと、先に進む前に意識合わせをしておきたい。

 ついでに「都会暮らしのゲイがあのころ穿いてたパンツは、たぶんヘテロが想像するようなものではない」という点も、ここで了解事項としたい。今なら出会い系のアプリなどもあって事情が異なる部分もあるのだろうが、当時のように特殊な環境で見知らぬ人々から半裸の性的魅力を判定されるのが常であれば、そういう形でしか出会いがないのだとすれば、誰でもセルフプロデュースに長けていく。あなたは身体を鍛えるかもしれない。パンツ一枚にしても、モテを意識して厳選するだろう。単に高価であればいいというのでもない――そんなの悪趣味だ。だから時には無邪気さや気取らなさ、気の回らなさも演出されることがある。そこで「ダサい」ではなく「カッコいい」と思わせる。全てはセンスの勝負だ――そこではダサささえ塩梅を考え抜かれた演出なのだ。あなたはパンツ一枚の裸で、自分の性的価値をジャッジされている。自分に他人からの欲望が集まるように、きっちり仕掛けなければならない。自分を選ばせ交渉成立に持ち込まなきゃならないのだとすれば、――パンツくらい選ぶもんだろ。だからそれは2,000円から3,000円代という価格帯だと考えてほしい。それ一枚でランウェイを歩くのだと考えるのならば、人によっては4,000円代でも払うかもしれない。本記事トップ画像のディーゼルなら、一枚2,000円程度だ。
 それが洗濯のたびに盗まれるとしたら? ――私は、心底困っていた。

 そのパンツ泥棒が好む男性像は、素朴さも残した体育会系の、性的魅力に溢れたタイプなのかもしれなかった。そういう奴が穿きそうな、そういう奴と印象付けるようなタイプのパンツばかりが盗まれていたからだ。泥棒がパンツの持ち主を私と知っているとは思わなかった――知っていてタイプなのであれば、パンツを盗むより誘った方が話が早いだろう。「金がない学生」という可能性もなきにしもあらずだったが、ゲイだろうと当たりをつけていた。あまりにもゲイが好みそうなパンツを奴が選ぶからだ。明らかに好みがある。傾向がある。どんな奴なのか興味がわかなくもなかったが、何よりパンツがなくなるのに困っていた――そんなある日のことだった。奴が来た。

 自分の部屋で昼寝をしていると、物干しのピッチがバチバチと音を立てた。干してある洗濯物を引っ張って外した音だ。はね起きてサッシを開け、ベランダに飛び出した――見下ろした階下に、そいつがいた。

 私は一声も発さなかった。均衡を破るのは行動に移す時だ。奴はとっさにアパートの庭木に身を寄せ、動かない。しかしこちらも動けなかった。ベランダから部屋に戻り玄関に走る、共用の通路を走り、階段を駆け下り、奴の前に回り込むまでに一分かかる。奴はこっちがベランダから玄関に走った途端、全速力で逃げるだろう。どちらも動けないまま時間が流れた。自分が迂闊にもベランダに出てしまったことを悔やんだ。音が聞こえた瞬間に玄関に走るべきだったのだ――そう頭の隅で考えながら、奴を見ていた。

 自分よりは若かった。学生と見えなくもない。細身で、特徴はない。顔立ちも表情も、二階からは見えなかった。あえて言えば、バンドやってそうな感じ。つまり下北沢にうじゃうじゃいる、その中で埋没するタイプに見えた。横目で部屋の中に何かないか探す――ダンベルしかねえよ。そんなもん頭に落とせるかよ。――その一瞬の心の迷いを見て取ったように、奴が動いた。こちらを見上げず、振り返らず、背中だけを見せて、逃げ始めた。

 あれはとても不思議な「間」だったと思い出す。あいつは私が動けないのを分かっていたと思う。決して取り乱さず、特別に急ぐわけでもなく、落ち着きさえ見せて敷地を出、公道に出て、すぐに建物の死角に姿を消した。

 あるいは――あの時、自分が不思議な悲しみにとらわれていなければ、追えたのかもしれない。盗んだパンツはその「理想の」持主を妄想するためのものだったのだろう。他人が選んだ洗剤、柔軟剤、部屋の匂い、持主の体臭、……それらのブレンド。奴にとってはそのコレクションこそが全てだった。しかしその夢の中でのみ続く時間は、今日唐突に終わったのだ。私は彼の想像の中にのみ住まう都合のよい人物ではなく、彼の頭にダンベルを落としかねない、怒りに満ちた実在の人間だった。現実が彼の夢に割り込み、彼はきっと全身に汗をかき死角で息をひそめながら、夢が壊れる音を聴いていた。――彼の夢は、欲望は、私のそれとどれほど違うだろう。パンツを盗むか盗まないかの差に過ぎない気もした。私だって、切に誰かに憧れたこともある。体臭にときめいたこともあれば、他者の体温を求めて眠れない日もあった――まるで渇きを知らないように、欲望を語ることが私にはできない。

 庭木に、身長ほどの長い棒が立てかけてあった。「遺留品」。――呆れたことに、棒の先端には洗濯物を引っかけるためのフックが針金で固定されていた。私はそれをゴミ集積所にただ置いた。そのまま何か月もそれはそこに置かれたままだった。奴が取りに戻らないことは分かっていた。私は結局そのアパートを出てしまったから、その後のことは知らない。ただ施設が古い大学に行くと映写用のスクリーンを引き下ろすための棒があり、それがそっくりの形状なので、あの奇妙な事件を思い出す。それでも今時はどこも電動スクリーンであることが多いから、事件が心をよぎる機会も減った。


 これを書きながらふと思う――おれはあいつのタイプだったんだろうか。
 
 いや、あいつは私をどこかで見かけて住まいを特定し洗濯物を狙ったわけではないだろう。近所を歩いていて洗濯物が干してあるのを見た。空想の中の理想の男が心に住み始め、それが実在であるかのように妄想を助けるものが、掠め取ったパンツだったというだけだ。具現化した夢。妄想のよすが。それまで収集していたパンツも、私のも含めて、事件後は捨てたんじゃないだろうか。さすがに証拠品を部屋に置き続けるほどのバカだとは思えない――いや、窃盗をする程度には愚かなんだが。


 管理会社になっていた不動産屋に家賃を納めに行った際、下着泥棒が出たことを報告した。古い不動産屋。いつもいる感じの悪い女性社員が、アハハアと、わざとらしく声を立てて笑った。男のパンツなんか盗んでどうすんのよ、という嘲笑。「いま自分が性的な価値づけ/モノ化を行なったこと」「被害を笑ったこと」「自分が嘲けり笑った対象が目の前の人物であること」……に気づかないまま生きていくタイプの人だったわけだが、その前から充分に失礼で印象のよくない人だったので少しも驚かなかった――生まれた地獄を補強しながら生涯住み続ける人はいるものだ。ふと立ち寄った不動産屋の古ぼけて薄暗い店舗に地中から掘り起こされたスズメバチの巣が飾ってあったら、その天然の意匠の他に見るべきものはない。

 あの特徴的な笑い――神経症的で大げさな、物事と距離をおいて防衛的な、人が人を見下す時に見せるあの笑い。人生であと何度経験するだろう。価値なきものと笑われていたのは「私の」パンツだった。それは「パンツ泥棒の」夢でもあった。嘲笑されるのと欲情されるのとでは、どちらが体験としてマシだろうか? ――あえて選ぶなら、私にとってはパンツで自慰される方がまだマシかもしれない。しかし窃盗は犯罪で、対して「誰があんたのパンツなんて盗むのよ?」という嘲りの笑いを被害者男性に叩きつけることはこの社会で無罪であるなら、やはり私はそう書くべきではないのかもしれない。


 今も私はパンツを含め、洗濯物を戸外に干している。だが盗まれない。どこの街に住んでも、それ以前もそれ以降も盗まれたことなどないのだ。あの街は何だったんだろうなと思う。だがそれさえ25年前の話だ。よし寝る。

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