クローゼットとランドリー──グザヴィエ・ドラン「わたしはロランス」

ヒメシャラ映劇が主催する上映会で、グザヴィエ・ドラン「わたしはロランス」(2012)を高山陣屋前のゲストハウスにて観た。身体的性は男性、性自認と性的指向は女性のロランスを描く168分の長編映画。1979年からの20数年のカナダやフランスが舞台とされ、ジェンダーへの社会的な視線の変化も感じられる。

ロランスは「親の会」からの抗議を理由に教職を不当に解雇され、ストレートの女性である恋人フレッドとの恋も(そこに決意なんて何もいらないはずなのに)さまざまに求められ求めてしまうもののあいだで揺れ動き、そして、こうした葛藤が抱えきれなくなった頃に破綻する。

もし、この映画がちょうど2時間のあたりで終わる映画だったなら「女性讃歌」の作品と位置づけてしまえたかもしれない。なぜなら、あの幸福をそのまま綴じこんだかのような空から降る大量のカラフルな衣服のシーンは(家事や社会的役割、視線からの) 解放の表象以外のなにものでもないように見えるからだ。しかし、そうであろうがなかろうが、彼女たちは退廃した状況や救いようのない関係にいつまでも引きずりこまれる。

失職を経て、作家となりえたロランスが出版した詩集『彼女たち』になぞらえるなら、ロランスのまわりにいる彼女たちもまた親や夫、恋人らによって常に損なわれ続けている。とにかくずーっと奪われ続ける。たとえ奪い返してもすぐに崩壊する。(大抵の場合、男性によって)あらかじめ用意された社会の指定席にその身を拘束され続ける。そのあいだ男性が変化を求められることはない。特にマージナルな存在として描かれるロランスの暴力性や自己中心さを見ていれば、すぐに「ストレート」である(とさっきぼくが書いた。)フレッドのマージナルさに思い至らずにはいられない。

劇中のインタビューで「視線が最も重要」とロランスが口にするとおり、ロランスの視線、ロランスが向けられる視線はショットへと違和感なく変換されている。ロランスが解雇を言い渡されるシーンでは、それまで同僚であったはずのひとたちを凝視するあまり隣の二人の姿は全く見えて(映されて)おらず、すべてが決定したあとで会議室の全体像が示される。思えば、冒頭の何人もの人間たちが見つめ返すバストショットは、本作がひとりの女性の生を深く眼差すことだけでなく、人類へのソレさえも両取りして離さまいとする強い野心の証左に他ならなかったのかもしれない。

クローゼットとランドリー、それぞれから取り出された衣服の「落下」は解放と拘束がほとんど同じ姿であるかもしれない憂鬱を仄めかしてもいたのだろうか。雪も枯葉も降り続ける。それでもロランスは、決して地上への降下を受け入れようとはしない。

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追記:十日町の映画館で見た『トム・アット・ザ・ファーム』の監督とほどなく知った。この頃の日記には2015年2月の日付と一緒に「秩序やカオスの中にほんのすこしの共有できるものを忍ばせられたら素晴らしい。」と書いていた。

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