「ないなら作る」 終戦直後、文武両道で挑んだ草野球/【俺と野球】
「巨人・大鵬・卵焼き」
そう表現されるもっともっと前のこと。
終戦直後、1940年代の話だ。
元大学教授の秋山成興(なりおき)さん(90)は自らの青年期を振り返る。
「皆との共通話題といえば本当に野球くらいしかなかった」
当時中学生だった成興少年は、学校の友人達と共に野球を始めた。
とは言え、物質的な豊かさはもちろんない。
バットは拾ってきたものを皆で使い回し。
ボールはゴムを丸めてなんとか作った。
流石にグローブは作ることができず、素手でプレーをしていた。
最終的には、大学生になるまでグローブは手にしたことがなかったという。
他にも、チームの集まりが悪い日は1人、バットを片手に川へ行き、転がっている石をボール代わりに自主練習に励んだ。
成興さんは大学卒業後、一般企業へ就職したが、30歳の時に退職をしている。
理由は組織に馴染めなかったから。
物事を深く考えて答えを出す性格は、スピードが求められるその企業では生きなかった。
それから進むべき道を見つめ直した結果、「人の前に立って、勉学を教えたい」という思いが芽生えてきた。
その後は、大学で学んだ事を再度猛勉強し、大学博士号を取得。
晴れて教壇に立つこととなった。
そんな目まぐるしいキャリアの中でも、野球から離れたことはなかったという。
チームを1番サードとして引っ張り、本格的に大会にも出場。
見事優勝に輝いたこともあった。
チームを代表してトロフィーを手にした時の嬉しさは生涯忘れないという。
大学事務員のチームメイトからは「先生、そんなに野球やって、勉強する暇あるんですか?」と疑念を抱かれたこともあるという。
だが、きっと違う。
仲間と打ち解け合い、楽しめる唯一の存在である野球があったからこそ、勉学にも励んでこられたのだろう。
まさに文武両道。
右手にペン、左手にバットを持った青年は、無我夢中で青春を駆け抜けた。
最後に成興さんは、「終戦直後は憂さ晴らしでやっていたけど、今はちゃんとした思い出だし娯楽の1つ」と自らと野球を結びつけた。
現在、私たちがつつがなく野球を観れているのも、こうして何もないところから文化を継承してくれた人たちのお陰だろう。
「何もないなら作ればいい」
そう立ち上がった姿に、今日叫ばれる起業家精神の真髄を見た。
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