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AIは安全なのか? 自分なりの論点整理

AIを巡る議論が熱を帯びてきました。ただ、議論が感情論も含めてかなり錯綜しており、自分が理解するために一度考え方を整理しておいた方が良いかなと思い、これを書いております。

私はAIについて議論するとき、特にAIが安全かどうかについて議論するときは、最低でも下記の3点に分けて議論しないと、混乱することになると考えています。

  1. AIを提供する側の議論

  2. AIを活用する側の議論

  3. AIそのものの人格、法人格に関する議論

ひとつめのAIを提供する側の議論は大きく二つあって、ひとつは、どのように学習させるかという学習にまつわる議論です。学習のモデル、学習対象となるデータの問題はここに属します。学習のモデルは技術的な議論で、ここについては今のところ大きな問題になっているポイントはないと思います。問題となっているのは、学習対象のデータで、個人情報や機密情報などAIに学ばせて良いのかどうかという点です。

これについては、私はAIであっても個人情報を侵すことはできないという立場で、あくまで個人情報保護法の下で学習データとして使われるべきであると考えます。個人情報保護法がAIを前提としていないのであれば、改正する必要があります。人間が一定の法の支配の元で活動しているのと同様、AIもそうあるべきです。

もうひとつは、AIを提供する主体が誰か、という議論です。これは国際政治的な論点で、AIを開発するのは自由主義国家だけでなく、権威主義国家、覇権主義国家も技術さえあればAIを開発できてしまうという問題です。これは、核技術と同じで、権威主義国家が悪意を持ってAIを開発するリスクがあるという論点になります。これらの国が適切なルールや国際的決まり事を守ることが期待できないという問題です。

私は実はこの問題が一番根が深くて、解決不可能なのではないかと懸念しています。上記のAIも法の支配下にあるべきという考え方も、法治国家でのみ成り立つ考え方で、強権的な権威主義国家では成り立ちようもありません。国際社会は、AIが実用化される前にこの問題を深刻に受け止めて議論をすべきでしたが、全くできていない状況です。時既に遅し、と言っても過言ではありません。

ふたつめのAIを活用する側の議論も大きく二つあって、ひとつはAIは私たちの就業機会を奪うものなのかどうか、という論点と、私たちはAIを活用しても(人間として)大丈夫なのか、という論点です。

前者は、最近話題になっているAI絵師の問題や、AIは私たちの仕事を奪い、路頭に迷わせるものなのかどうかという問題です。私は、これについては、恐らく、AIは絵師や小説家といったクリエイターたちは勿論、一般のサラリーマンの中にも職業を奪われる人は増えるのではないかと考えています。しかも、複雑でコストのかかる仕事ほどAIに取って代わられる可能性が高いです。

これについては私はまだ結論を出せていません。確かに仕事を奪われる人は出てくると思うけれど、複雑でコストのかかる仕事がAIにとって代わることで、それが提供するサービス自体は安くなりますので、全体としては人間のためにプラスになる点も看過できないからです。この問題は、最近よく耳にするリスキリングとも関連してくる問題です。どちらかというとAIの問題というよりは、労働流動性の問題として扱うべきなのかも知れません。

後者は教育現場でAIを使ってよいのかどうか、ChatGPTは(人間の)学習や仕事の中でどのように使われるべきか、という問題です。これについては、私は別の記事で私の考え方を示してあります。

教育現場についても、教育の目的が何であるかを考えれば自ずと答えは出てくると思います。情報を集め、分析し、考え、自分なりの答えを出せるようになることが教育の目的であれば、それは人間の頭でやるべきで、AIに任せてしまうべきものではありません。決して人間が無責任に答えを求めるためにAIを使うべきではないというのが私の立ち位置です。仮にAIが出したものであっても、それを答えと認めたのが人間なら、責任を負うべきはその人間であるべきです。

3つめのAIの人格に関する議論は、技術的でもあり哲学的な議論です。私は今のところはAIに独立した人格や法人格を認めるべきでないという立場ですが、いずれは認めざるを得ない日が来るかも知れません。こればかりは、未来の話として、SF小説にお任せするしかありませんね。

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