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『聖なる公同の教会』とは

 聖なる公同の教会とはいかなるものか。この言葉の中には3つの要素が含まれている。即ち、「聖なる」とは、「公同」とは、「教会」とは何かという3つの問いである。しかしながら、われわれは「聖なる」存在一般について、また「公同」の存在一般についてここで追求しようと考えるものではない。「聖なる教会」について「公同の教会」についてを追求するのである。従って、「聖なる教会」「公同の教会」という2つの要素に解答すれば良いようにも思われるが、「教会」とは何であって、何でないかという問いにも当然答えるべきであるだろう。従って、まず「教会」とは何かを明らかにした後、「聖なる教会」とは「公同の教会」とは何かを検討することによって、「聖なる公同の教会」について明らかにしてゆきたいと思う。

1.「教会」とは
 カール・バルトは教会が何ではないかということについて次のように述べている。「教会とは、1つの施設に変じた神の啓示ではない。すなわち、この施設において、神の意志と真理と恵みとが、超自然的な権威と認識と力との一定の総和という形で、人間の所有に委ねられている、というようなものではない。」これは中世カトリック教会のようなあり方に対する批判であり、反省であると思われる。教会そのものが神の啓示ではないということは、教会は神の啓示したもうた神の言、即ち、イエス・キリストでありそれを証する聖書を与えられてはいるが、教会自体が人間に対する救いの方法や救いの装置と同一視された神の国そのものではないということを示している。
 さらに、そこで示される神の意志は「その栄光をいかなる人間とも分かち給わぬ主の自由な意志として」理解される。教会において、神はその秘儀において信仰において我々に顕れ、イエス・キリストの人格においてのみ、つまり司祭や牧師、また、あらゆる人間や被造物の協力なしに、神の恵みが聖霊の働きによって自由な神の主権による行為として理解され、礼拝されるのである。
 さらにバルトは次のように付け加える。「教会は、神の啓示から人間に与えられ、人間がそれに基づいて自分の一定の確信を形作り、やがては一定の決意・生活基準・風習にまで凝結し、敬虔と倫理の中心点となるというような、感銘・経験・刺激を養うための自由な協会(フエルアイン)でもない。教会は、啓示に対する人間の選択や決断や態度決定などから、生ずるものではない。」つまり、教会を生ぜしめるのは人間の意志決定ではないということである。我々が主の教会と考える物は、我々が啓示に基づいた一定の確信やドグマに従って作られるべき物ではないのである。むしろ教会は、神が人間のもとに来たり、人間のものとなり給う啓示、即ち、イエス・キリストの受肉において生ずる、神の側からの決断と招きによって生じるのである。それは、エフェソの信徒への手紙4章5-6節に「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とあるとおりである。

2.「聖なる教会」とは
 「聖」なるものという概念とは何か。それは「聖別」というように他から区別された存在、分けられた存在をあらわしている。教会が聖なるものであるということは、他の場所・集団から区別されている、違った性質を持っているものとされているということである。そしてその性質は聖なる実体がそこに与えられることによって生じる性質である。即ち、神の恵みと啓示であり、聖霊の働きが与えられることによって、教会は聖なるものと言えるのである。
 聖書は「聖」について他の意味を示しているようである。聖であるということは、唯一の聖なる方である神によって用いられる事を意味している。そして、教会とそこに所属する我々は、神によって用いられるとき聖たりうるのである。それは聖書に次のように述べられている。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ3:16-17)神が聖であるからこそ、その霊を受けた我々も聖なるものとされるのであり、また教会も聖なるものであるといえる。

3.「公同の教会」とは
 「公同の」という言葉は「カトリック」を意味している。即ち、普遍性・公同性ということを意味する。これは、当然、ローマ・カトリックを意味する事だけに留まらず、教会が代々に続いていること、そしてそこにはいつも、聖書とそこに証された神の啓示による使信があり、教会の成立と目的が同じ唯一の神とイエス・キリストによって定められ、聖霊の働きによって常に用いられているという同一性が存在する。そして、その使命は全世界を包括している。この性質によって教会は「公同」、普遍であると言えるのである。
 また、日本基督教団信仰告白では「教会は公の礼拝を守り」と述べられているが、この主日礼拝を我々は「公同礼拝」と呼び、全世界の教会が共通して守るべき第一の務めと定めている。そして、この礼拝は本来この世の中にあって、全世界に開かれており、世界の救いのために行われるものである。また、教団信仰告白に続いて、「代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べて、「使徒信条」を告白することにより、キリスト教会の歴史とその信仰の伝統に参与する事を表明している。つまり、私たちは単に日本基督教団に属しているだけでなく、あらゆる時代、あらゆる地域におけるキリスト教会すべての聖徒たちと同じ一つの信仰を持っていることを示しているのである。
 これらの事実によって、教会の働きは「公同」、普遍のものであるということができる。

4.まとめとして ~「聖なる公同の教会」~
 我々が、教会は一つであるという場合、前述した理由により一つの教会であると言い得る。それは、聖書によって啓示せられた神が唯一の神であり、その一人子であるイエス・キリストによって我らが救われたことを信じ、同じ一つの聖霊によって、代々の聖徒と共に全世界に向けて全ての教会が同じ使信を発信しているということによって裏付けられる。
 それは決して教会の大小ではなく、発足・成立の新旧でもなく、ただ一つの信仰によってのみわれわれが「聖なる公同の」存在であることを許されているということである。時代によって、教会は少しずつ変ってゆく。教会の頂点にある一人の人間が「神の代理人」であった時は終わり、プロテスタント教会では7つの秘蹟は2つになった。更に言うならば、救世軍のような教会は、秘蹟を持たないことすらあった。しかしながら、それらの変化を経てなお我らが「聖なる公同の教会」として1つと言い得るのは、唯一の神、ひとり子イエス・キリスト、聖霊の働きを信じつつ、神の国の到来を祈り待ち望み、主の再臨を待望する信仰が常に同じくして、全世界に向けて開かれているからなのである。

参考文献
『教会―――活ける主の活ける教団』カール・バルト、井上良雄、新教出版社、1978
『教会教育シリーズ7 教会とは何か』J.H.ハンソン、柏木信隆訳、聖文舎、1969
『われらの信仰』関田寛雄、日本基督教団出版局、1983
『現代人にとってキリスト教信仰とは何か』ゴットホルト・ミュラー、宮田光雄訳、新地書房、1984

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