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スイカ×ミント×レモン 『浴衣が似合う、妻子持ちの男』

最近、めっきり寒くなった。日が落ちるのも早い。
冬に向かってどんどん暗くなっていくこの時期は大嫌いだ。世の中はクリスマスに向けて浮ついた空気すら漂うが、俺にとってこの季節は暗くて、冷たくて、気が滅入る。全然ロマンチックなんかじゃない。ロマンチックなのは、いつも夏なのだ、俺にとっては。

寒くて布団から出る気も起きない、仕事もしたくない、そんな気怠い週半ば水曜日の朝。
毛布の中でスマホを弄って芸能人の不倫ゴシップを読み漁っていたら、いつもは楽しい気分になるのに、この日はなぜか余計に気が滅入った。窓の外はどんよりと曇っている。

なんとか布団を這い出て顔を洗い髭を剃ったものの、何もする気が起きない。
寒さと低気圧のせいということにして、全部サボることにした俺は、お気に入りの緑と黄色のチェック柄のストールを巻き、シーシャバーへ。

初めてのオリジナルフレーバーは、スイカ×ミント×レモン

シーシャ初心者の俺は毎回店員さんやお店のおすすめフレーバーを選んでいたが、次は絶対自分でミックスすると決めていた。

寒さにうんざりしていた俺が、今回自分で選んだ記念すべき最初のフレーバーは、スイカ×ミント×レモン。
シーシャの煙を吸っているほんの1時間半の間くらい、迫り来る冬を忘れて大好きな夏にトリップしたい。

まずは静かにひと口。
口の中にはスイカの爽やかな甘みと、ミント・レモンの清涼感ある風味がほんのりと広がっていく。
もうひと口。今度は深く吸い込んでみる。するとスイカの皮目の、ウリ特有の青臭さも捉えることができた。

本物のカットスイカ同様、控えめにかじると上澄の甘みだけが、深くかぶりつくと皮目の水々しさを感じることができるようだった。俺は子供の頃から、スイカが好きだった。

何というか、ひと口ひと口、大切に吸いたくなるような、繊細な香りがした。
なぜだろう。

煙の中で男は大学1年生の夏休みを追憶する

よく晴れた気怠い夏休みの1日。川沿いの鄙びた温泉宿。

すっかり忘れていたが気怠いのは冬だけじゃない。俺は冬も夏も年中気怠い男なのだと思い出す。
特に、大学生の夏休み。使用済みの避妊具くらい薄く間延びして、だらしなく長すぎるあの日々は、もう何年前のことだろう。
まだ若くてほうれい線も白髪もない頃のツルツルな俺が、煙の向こうにいた。年上の男と一緒に、宿の薄っぺらい布団の上でいちゃついている。

俺も男も、だらしなく着崩した浴衣を着ている。
ああ、空の青さに反したこの気怠さは、この男との事後の気怠さだったのかもしれない。

細面で、夏なのに色白で、鼻筋が通った男の顔を、俺は美しいと思う。くしゃくしゃの黒髪が、開け放した窓から入ってくる川風に揺れている。
鼻筋の通った浴衣の似合う黒髪の男が、俺は今も昔も大好きだ。

なんでだっけ?

彼が立ち上がって浴衣の帯を直す。そして、窓際の広縁に座って、とっくにぬるくなっているであろう飲みかけの缶ビールをひと口。
宿の窓際にあるおかしな応接セットのようなこのテーブルと椅子のセットを、広縁というのだと教えてくれたのは彼だった。
その華奢な首筋に浮かぶ喉仏がゴクリ、と大きく動いた。なんて美しい横顔だろう。

彼がこちらを向いて手招きする。俺はユラユラと幽霊のような足取りで、彼のそばへ行く。膝の上に、彼と向かい合って、対面座位の姿勢で座る。
彼の手からビールを奪って残りを全部飲み干す。窓の外から聞こえてくる川音が、うるさいくらいだ。

彼の細い腕が、テーブルの上に置いてあった、小さく切ったスイカを掴む。朝食の席で余ったものを、こっそり持って帰ってきたのだ。
彼が俺と視線を逸らさないまま、それをひと口かじる。唇の端から溢れた赤い雫が、彼の薄い胸元を汚す。

それに俺は舌を這わせる。そんな俺の浴衣の帯を、彼はもう片方の手でほどき始める。薄く笑いながら。
ヨレヨレになった浴衣をひん剥かれながら、彼の口に舌を差し込むと、ふたりの唾液で温まったスイカの甘みと青臭さが鼻を抜けていく。

彼の携帯がバイブ音を響かせる。今回の舞台の時代設定は、人々がまだスマホではなく、二つ折りの携帯電話を使っていた頃だ。そしてそんな携帯のバイブを鳴らすのは、きっと東京にいる彼の妻だろう。
俺の存在を黙認している、という顔も知らない、彼の妻。

川の流れる音と蝉時雨で、何も聞こえないということにする。
そう、今俺たちには、何も、聞こえない。

夏は男を感傷的にする

この夏、覚えたての男とのセックス。
手慣れた彼と違って俺はまだ不器用だが、回を追うごとにどんどんハマっていった。
俺がハマっていたのは、本当は男同士のセックスじゃなくて、彼という男だということにも、気づかないふりをする。何かが怖かったからだ。でも一体何が?

何度目かの情事の後、彼と2人きりで露天風呂に入った。
髪を洗い合って、他に客がいないのをいいことに湯煙の中でのぼせるまで絡み合って、舌を吸い合う。
ハタチそこそこの俺には、まだ愛や恋というものが何なのか、全くわかっていなかった。しかしそれはそれで幸福なことなのではないだろうかと、シーシャのマウスピースを咥える35の俺は思う。

軽く湯あたりした俺は、電気を消した部屋の布団の上で浴衣をはだけて目を閉じる。
襖を閉じた向こう側、広縁から光が漏れている。彼の低くて、か細い声が聞こえてくる。
きっと妻か子供と話しているのだろう。「仕事の人」と「出張中」という名目でやって来ているこの旅行の相手が、俺だということを、彼の妻は気が付いているのだろうか。

「お土産買っていくよ」

俺に軽薄なのか本心なのかわからない愛を囁きながら、それとは全く関係ない愛情で、彼は妻子を愛している。
彼のそういうところが好きだった。学校の友人たちはみんな、そんな俺をおかしいと言う。
だが、少しもおかしくなどない。

自分の妻や子供を軽んじて、目先のセックスや不倫だけを京楽的に楽しむような男なら、俺は好きになったりしなかった。
彼の優しさを、俺は愛したのだ。涼しげな横顔や、少し癖っ毛の黒髪以上に。

この旅行が終われば、この夏が終われば、夏の初めに始まった俺たちの関係も終わっていく。
なんとなくそんな予感を抱きながら、うっすらと目を開けると、電話を終えた彼が襖を開けて、こちらに向かってくる。夏の間、蝉が1匹ずつ確実に死んでいくようにゆっくりと、しかし確実に、向かってくる。

広縁のテーブルの上には、昼間彼の齧ったスイカの皮が、捨てられずにまだ置いてきぼりになっている。それをまるで自分みたいだと思うのは、いささか感傷がすぎるだろうか?

初体験や初恋はいつでも甘く、苦く、青臭い

店を出るとまだ4時なのに薄暗くなり始めていて、家を出た時よりもぐっと空気も冷え込んでいた。
俺は緑のストールに顔を埋める。学生時代から使っているお気に入りの大判ストールの中で、スイカがほのかに香るような気がした。ちょうどスイカの皮によく似た色味のストールは、初体験の男から誕生日にもらったものだ。

スイカの煙の中で見た男との幻影は、どこまでがフィクションで、どこまでが実話だったのか。遠い昔のことすぎてもうわからない。
ただひとつ思い出せるのは、実際の彼も涼しげな横顔で、少し癖毛の黒髪で、浴衣がよく似合う、妻子持ちの男だったということだ。
そして夏の終わりとともに自然消滅してしまったということも。

35年前自分が生まれた、冬へと移ろいゆくこの季節を俺が嫌いなのは、まだ捨てられずにいるこの緑のストールが彼を思い出させるからだろうか。

初恋や初体験の思い出はよく甘酸っぱいものとして表現されるが、俺にとっては甘くて、少しだけ苦くて、青臭いものとしていつまでも存在している。あの大学1年生の、夏休みのように。

そういえば、もう何年もスイカというものを食べていない。
寒くなり始めた頃に恋しくなっても、夏と一緒にスイカの時期はあっという間に過ぎてしまっている。
間違いなく人生で1番美しかった夏の思い出を、俺はこうして毎年、夏が過ぎてしまってから思い出すのだ。

この日のシーシャは何だか目に沁みた。

メモ:
スイカ×ミント×レモンのフレーバーは、誰しもが持っている「人生で1番美しかった夏」を共に過ごしたであろう男のような香り。俺にとっては妻子持ちで、浴衣の似合う男。人が寒い季節を生きるためには、いつだって美しい思い出が必要だ。それがたとえ、過ちを犯した記憶であっても。


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