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自己紹介(石賀涼平について)

プロフィール

【現在】

◇ アスリートの専属ストレングス&コンディショニングコーチ(S&Cコーチ)
⇒ オリンピック・パラリンピックに出場を目指すアスリートやプロアスリートのパフォーマンス指導やトレーニング指導をしています。

◇ スポーツチーム等のS&Cコーチ 
⇒ 学生チームを中心に社会人チームなどにも関わっています。

◇ 医療・介護系企業のコンサルタント 
⇒ 生意気にも主導権を持たせて頂き、会社の業績アップのために奮闘中。
社長が本当に素晴らしい方でリ ーダーとしての資質も学ばせてもらっています。

◇ 一般社団法人Link 代表理事(東大和アイスホッケーサポーターズ 代表)
⇒ これからどんどん仕掛けていきます!といいつつ、本当に多くの方に支えられています。日々感謝の気持ちを忘れず邁進していきます。

大阪府 東大阪市出身
近畿大学附属高等学校
日本体育大学体育学部社会体育学科
花田学園 日本鍼灸理療専門学校夜間部本科

スポーツのプチ名門校から体育大学へ進学したことをきっかけに上京。
大学卒業後、専門学校にも入るという親泣かせな学歴です。資格等はいくつか保有していますが、ちゃっかり鍼灸師とあん摩マッサージ指圧師という免許も持っています。

今までについて

1989年(平成元年)6月18日に大阪府・東大阪市(ラグビーのまち)出身。

両親ともにスポーツとは無縁の文化系で、スポーツの仕事をするなんて1mmも想像できないような家系で育つ。

小学校時代はソフトボール、硬式野球に没頭。
ソフトボールのピッチャーもしていたので、ソフトボールのウィンドミル投法はぼちぼち投げれます。
硬式野球はデッドボールが本当に嫌だったので、小学生で綺麗に終えました。(良く言えば引退。)

中学~高校時代

少しだけ勉強ができたので、塾通いもしながら私立の中学校に進学。
この中学校で、陸上競技(長距離・駅伝)を始める。

ここで運命的に恩師の先生と出会う。
今の自分自身の考え方は、この先生の影響をかなり受けている。
今やインターハイチャンピオンも数名出している凄腕の指導者。(未だに自分の中で一番緊張する人でもある。)

中高では、集中力どっかいったんか!というくらい落ち着きがなく、授業態度もあまり良くなかったので、ほとんどの先生から一度はしばかれる。(※ゆとり世代と言われてきたけど、体罰ラスト世代と自負している。笑)

中学時代に、スポーツでの特待生や推薦入学のお話を頂くが、将来こうなるんだろうなと簡単にイメージできてしまう選択肢を選ばないというクセがあり、高校の進路はスポーツでの入学の道を進まないことを選択する。

高校でも陸上競技を続ける。
しかし、秘密兵器と言われたまま3年間怪我を繰り返してしまい、そのまま秘密兵器で終える。その時に、いろいろあって鬱病にもなる。
期待を外して、人が周りから離れていくという経験をしたことで、この挫折は貴重な経験となった。それでもスポーツでの進学のお話もあったが、別の道を進む選択をした。(この時の選択に至るまでのドラマもさまざなあったが割愛します。)

大学時代~

大学は、桜マーク(日体大の校章)に憧れて日本体育大学に進学。
桜マークに憧れるきっかけは、恩師の先生が自分にくれたTシャツと先生の母校であるということ。

上京することになり、7割以上が東京大学の学生が暮らす学生寮にぶち込まれる。スポーツ系大学は自分だけだったが、楽しく仲良く4年間を過ごす。寮の同期とは今も仲良くしている。
教員を志していたが、入学と同時にパフォーマンスの改善に興味を持って、教員の道を大きく外れる。(親からそこそこ怒られる。)

大学1年からアスレティックトレーナーになるいうことには全く興味がなかったが、実業団のトップチームで4年間インターンとして活動しながら、自分がやりたい分野がまだ確立されていないと言われて迷走する。
そんな自分でもたくさんの方々に可愛がって頂き、大学の先生方にもたくさんの環境と学びを頂いた。本当に関わってくれた全ての方に感謝。

インターンを続けながら学内の部活動サポートもしていたので、たくさんの友だちができたり、こんないい人たちが世の中にいるのかという夢のような時間を過ごした。

みんな良いヤツばかりで最高だった。
卒業はこの世の終わりくらい寂しかった。

大学卒業~

運良く実業団チームのS&Cコーチとして就職する。
その後、ヘッドトレーナーと喧嘩をして辞める。
若手なのに伝説級に舐めていた。笑

ここから数ヶ月のニート生活を経験。
昼はパチンコ、夜は夜更かし。という典型的なニート生活を送る。
ニート期間で得たことはピンチはピンチであるということ。

このニート期間に、ロンドンオリンピックが開催されていたので、全期間ライブで見るという謎のポリシーを守り抜く。⇐いや、働けよ!
オリンピックが終わる頃には、『腐っている場合ではない!』と気持ちが切り替わる。(3大会後の2024年大会には、オリンピック・パラリンピックアスリートをサポートできるように頑張るぞー!と根拠のない誓いを立てる。)

この直後からたくさんの方に会いに行った。
大学時代は大学名で会ってくれる方がたくさんいたが、当時何も肩書きがなく、本当に人に会うだけで苦労することも多かった。
そんな状態の自分でも会ってくれた方々には本当に助けられた。

圧倒的に強烈なものを感じた方たちにも出会って、ハンマーで頭を殴られたような衝撃も受けた。
当時の自分の成長スピードでは到底追いつけないことを見せつけられて、自分自身のスイッチが入った気がした。

その勢いのまま、なんとか脱ニートを達成してからは鍼灸の専門学校に入学。

昼は仕事をして、夜は学校という見た目だけはハードな3年間がスタートする。

学生のラスト1年で、さらに仕事を頂くようになり始めて収入が安定してきたが、仕事ばかりになって国家試験どころではなくなり始める。
⇒絵に描いたような本末転倒パターン。周りには絶対落ちると思われていた。

国家試験1ヶ月半前に試験に落ちる夢を見て、さすがに勉強を始める。
当日も落ちる候補として名前が上がっていたが、63%でギリギリ合格(合格ライン60%以上)。⇐ヘッスラ(ヘッドスライディング)合格
夢を見ていなかったら自分は落ちていたなと思うので、運命は少しだけ信じるタイプになった。

専門卒業~現在

専門卒業後も個人で仕事をしていたが、このまま個人で仕事をし続けるだけでええんか?という自問自答を繰り返す日々が続いた。(元ニートが何を言ってんだという話w)

自分が凄いと思った方々は、責任の背負い方や覚悟のレベルが圧倒的に違っていた。自分にはそもそもそこが足りていなったと気づいて、こんなんではダメだと再起を誓う。

この時に自分には素敵な先輩たちがいたことが幸運であった。
朝まで全力で叱りながらも向き合ってくれたり、とことん話に付き合ってくれたり、人生の中でたくさんの方が自分に対してそうしてくれた。フリーランスで仕事ができているのは、決して自分が優秀なわけではない。

本当に自分がやりたいことを改めて一から考え直した。

その後、トップアスリートの専属サポートや日本代表スタッフをすることにもなったが、実際そこには自分の求める世界はなかった。いろいろ経験させてもらって感じたことは、自分の描く未来は自分で描くしなかいということである。

現在は、スポーツを通してできることは何か?究極の大喜利と向き合う日々を過ごしている。バラバラな職種に関わっていると思われるが、自らの中ではすごく繋がっている。

人に貢献すること、人に喜んでもらうことが自分のやりたいことであり、あくまで職種は手段ですぎない。

私はそんなストレングス&コンディショニングコーチである。

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