休日をサボる

僕は、一人暮らしをしてもう10年が経とうとしている。

10年間…
これは、僕が「休日恐怖症」に悩ませている時間と同義でもある。

大学生の時から顕著だった。講義を受け、家に帰る。その時から僕の休日は始まる。

阿佐ヶ谷の狭い部屋が、シーンと静まり返る。
ふとある考えが思い浮かぶ。
「僕はこんなことしていていいのだろうか?」
またある声がする。
「同世代の人たちは、この時間楽しく過ごしてるのではないか?」

後者は、社会人になってこう変わった。
「社会人の休日はこんなのでいいのか?」

怖くなる。休日が来ると、上記の声が聞こえるから。あの声たちはどんな機能を果たすか?

それは「"君の休日は休日ではない"と僕に不安感を及ぼす」という機能であり、
つまり、上記の声=不安増幅装置なのである。


この十年、僕は何もしなかったわけじゃない。
様々な本を読んで試し、様々な人と話し知見を得た。

でもダメだった。

未だに「休日が怖くてたまらないのだ」。

しかしここに来て、一つのアイデアを思いついた。まだ未完成だけど画期的な。

それは「休むのをサボろう」というものだ。

僕の問題は、「休日=充実させるべきもの」
という思い込みある。
「充実させる」というのはつまり、何か行動し"続けている"ことだ。

でもよく考えてほしい。
そもそも休日とは、社会人であれば、日々の仕事の疲れを癒すべき日だ。
なぜ、行動が必要なんだ?

そこでキーワードになるのが、「想像力(環世界移動的)」と「孤独感」だ。

僕ら人間は、想像力を持っている。
高い人と低い人がいる。
高い人(あるいは妄想的な人)であれば、
同じ時間帯にどこかにいるだろう、同世代の人間の生活を想像するだろう。

するとどうしても、自身とのギャップを見つけてしまう。そしてそのギャップではなぜか、いつも自分が下だ。

孤独感はそこから発生する。
自分で勝手に想像し、作った「あるのかないのかも不明瞭な世界」に自分が繋がれていないことに、大きな失望を覚え、断絶された気がしてしまう。
休日は、すべきことがトップダウンによって起こることは少ない。そのために、空白の時間が生まれやすい。
その時、「想像-孤独」が生まれる。そしてそれを打開しようと、自身が勝手に作り上げたコミュニティに繋がろうと、「行動」する。

僕は、よく仕事で「頑張りすぎている。上手いことサボる能力を身につけなさい」と言われてきた。最近は、やっとコツがわかってきている。

僕は、休日もサボれるのではないかと思った。

上記に書いた「想像-孤独」は、解決策があるにはあるが、現代の社会構造の中では仕方ないところもあるかと思う。
これもサボろうと思う。適当に想像して、適当に孤独に付き合うのだ。

休日は、テキトーでいい。休めなくてもいい。
決めていた家事が完璧にできなくていい。
予定通り、一日がすぎなくてもいい。
「上手くサボるべき対象」なのだから。