外で仕事をすることが多い私は、飽き性ゆえか、固定の仕事場を持たない。昨日は、たまたま近所で深夜営業しているシーシャ屋を見つけたので、立ち寄ることにした。 入り口を入って左手にメインスペースがあり、その中はバーカウンターと踊り場に分けられている。踊り場の壁沿いには客用の椅子がLの字で並べられていて、広さは八畳くらいに見える。 照明はバーカウンターに向けられていて、客が座る方にはかすかに光が届いているくらいで、薄暗く設定されている。 バーカウンターにきれいに並べられたウィスキ
東京、六本木にある蔦屋書店に入った。ここはスターバックスと併設している。このコンビの相性は抜群だ。 私はコーヒーを買い、バーにありそうな脚の長い椅子と、明らかにパソコン作業には向かないと思われる小さい机を今から一時間の間の自分の居場所に決めた。 数年ぶりに訪れたのだが、外国人の客が明らかに増えていた。165cmの身長の私でさえ背中を丸めないと椅子と机のバランスが取れないので、今後外人が増えていけば店内インテリアも変わっていくだろう。 建物全体は二階建てなのだが、カフェス
喫茶店の店内はいつも以上に静かだった。 私の隣に座った女は、オムライスとレモンスカッシュを注文した。 「オムライスはちょっとお時間いただくと思うのですが」 「大丈夫です」 ここの喫茶店は、本当にお時間いただくことを私は知っている。だからせっかちな私はアイスコーヒーしか頼まない。 女がオムライスを待っている間、別卓にいた男女が注文した品がこないことに痺れを切らし、お金だけ払って出ていった。 # 女はスプーンと皿のぶつかる音を極力減らしながらオムライスを口に運んだ。
ある男がいた。小肉中背、年齢は40代くらいだろう。 その男は毎日18~19時の間に廃れたアーケード街の地下にある、お世辞にも繁盛しているとは言えない喫茶店に入る。 入店すると席に着く前にアイスコーヒーを頼み、座ると深呼吸をする。 コーヒーが運ばれるとセブンスターを一本吸って、カバンからキャンパスノートを取り出し、丁寧に白紙のページを開く。 ノートを見ながらボケーっとしたり、かと思うといきなり見開きのノートの左側のページから使いはじめる。罫線を思いっきり無視して、まるで一筆
目的地まで残り11キロ。 運転可能距離6キロ。 既にガソリンのemptyマークは点灯している。 車の充電ソケットから電池が切れそうな携帯を抜き、30度を超える気温の中、マックスに付けていたエアコンを切って私は戦闘モードに入った。 私には、車に乗るときにいかにしてガソリンを使わないかをゲーム感覚で楽しむ習性があり、普段からガソリンの消費量を減らすためにちょっとした坂道でもギアをニュートラルに入れている。(車は、ニュートラル状態の時にはガソリンの消費量が著しく下がるのだ)
昨日北九州で仕事の打ち合わせがあり、ドライブ好きな私はいつも通り車で向かった。 「運転してると無心になれるんだよね〜」という友人が何人かいるが、なんかピンとこない。 私は、目的地に近づいていく、前進していく感覚が好きなのだ。 サラリーマン的にいうと、メール返信などの小さいタスクをどんどんこなしてスッキリする感覚に近い。 その日は日曜日だったにも関わらず、幸運にも道は空いていて目的地に早く着いた。 散歩でもして時間を潰そうかと思ったが、気温は30度を超えていた。 汗だくにな
昼頃に起床すると、まるで何かに取り憑かれたかのように、あるいは義務であるかのように本日も自宅から20分ほど歩いてカフェに行く。 特にやることが決まってもいないのに、わざわざ歩いて向かう。 残暑厳しい9月の福岡、気温は30度を超えていた。 # 幼少期からゲームは苦手で漫画も読まない。 野球をしたり、公園で話したり、 “遊ぶ”といえば常に誰かとの共同作業を意味し、 一人でいる時に楽しいと感じた記憶はない。 やがて私は、一人で自分の機嫌を取ることが苦手になっていた。
先日、ふらっと入った居酒屋で野球中継を観ていると(私の家にはテレビはない)、攻守入れ替えの間で流れるCMに味の素、日清、サントリーなどの食品業界のものが多いことに気が付いた。 そこでは、糖質たっぷりの食事や、美味しそうな揚げ物、仕事終わりのビールなど、身体に良いとは言い難いものが、幸せな家庭、気の合う仲間と共に描かれていた。 これまではなんとも思わずにみていたCMだが、27歳になり食生活についてそれなりに情報収集をして知識を持った今見てみると、日本を支配する巨大企業の存在
品という言葉は非常に曖昧な言葉である。 男女によって意味合いが変わるし、見た目や食事での作法の話まで様々なシチュエーションで語られる。 ある人にとっては品があると思われることも、他の人にとってはそうではないこともある。 今回"品"について書きたいと思った理由は、大衆()の考える"品がある"ということと、私が考える"品がある"に大きな隔たりがあると感じており、今後30代を迎えるにあたり、この隔たりの正体を把握することが直感的に大事だと思ったからだ。 そこで、 自分の中で品
ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んでから一昨日で23年が経った。 この事件はイスラム原理主義組織のアルカイダが起こしたもので、21世紀最大の出来事の一つと言われている。 そんな大事件だが、今年は9.11に関する記事が私のタイムラインに一度たりとも姿を見せなかったのだ。 過去を振り返ってみると、9.11レベルの事件は「あれから何年」といったフレーズとセットで毎年現れていたが、年々少なくなり、今年は完全にいなくなった。 我々は、自分が見たいものだけをみるようになっ
ここ数年日本の地方の田舎によく旅に出ている。 そこで感じるのは、地方は身内感が強く、新しいものをあまり受け入れない、そして社会主義的であるということだ。 田舎にはこれからの観光業における重要項目である自然があるので、どうにかして地方の方と一緒に仕事をしたいと思っているが、なかなか難しかったりする。私のようなよそ者は受け入れられない。 ある種、田舎の人はもののけ姫に出てくるもののけのような感じがあり、資本主義的なものを自分達の味方であるとは思っていないと感じる。お前らはこ
一人で行くのが旅、友人、恋人と行くのが旅行だと思っている。 ネットを見ていると、友達がいないと嘆く人が多いが、 友達が欲しい人こそ旅に出て欲しい。 # 旅に出ると、 どうやって楽しむか? と模索するので頭を使う。どのように時間を使うべきか、どうゆうところでご飯を食べ、酒を飲むか、考えることはたくさん出てくる。 ここが良さそう!と思っても意外と良くなかったり、その逆も然りでトライアンドエラーを必然的に体験できる。 そういった経験から、自分なりの世界の見方、ロジックが
ビジネス界隈の人は、 事業モデル、営業方法に関してなど、まずは徹底的にパクれ、と言う。 一方で、芸術の面でいうと、 パクリは御法度とされている。 この理由を考察してみたい。 理由は三つ浮かんだ。 一つ目は、ビジネスはお金稼ぎという明確な目的があるから。 まだ、資本主義社会なので。 一方で、芸術においてはお金稼ぎの手段としての認識がされていない。これはアートが娯楽出身であることから来ているのだろう。 我々大衆は、世界の富豪が芸術作品に何十億とつぎ込んでいるのが理解で
私は作業する時には喫茶店に行くことが多い。 スタバとかタリーズのような、大量の資本を投下して作られた、合理主義的な場所よりも、昔ながらの味のある店を好む。 自分自身は自他共に認める合理主義者だ。効率の悪いことはやりたくない。それが理由で他人と揉めることもある。 そんな私もスタバではなく喫茶店を選んでいるというところから合理主義の限界を感じたのだ。 世の中とても便利になり、大体の問題は解決されていて、質の高い答えが用意されている。 合理的はモノは溢れかえっているので、
人間の頭の良さには三段階あると思っている。 具体的な事象を理解できるのが第一段階。 その具体的な事象から抽象化して自分のものにできるのが第二段階。 その抽象化したものを使って横展開してアクションを起こせるのが第三段階。 分かりづらいと思うので例を挙げる。 ラーメン二郎はラーメン界の中でも異質な存在でカルト的な人気を誇っている。 並んでいる人の行列を見て、人気なんだな、と理解できるのが第一段階。 二郎は、他のラーメンと違って見た目は汚いし、量も多く、接客も怖いし、
Chat GPTによって知識が不要になった。 例えば 産業革命についてわかりやすく教えて と入力すると、 産業革命そのものの説明に加えてどんな変化が起きたのか、というところまで教えてくれる。 では、知識を入れるための時間が不要になった我々がここからやるべきことはなんだろうか? それは、GPTに教えてもらった具体的な知識を抽象化して、自分がこの世界でどのような振る舞いをするべきか、を考えていくことだ。与えられた知識を自分なりに噛み砕いて自分のものにする、みたいなイメージ