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地方公立高の純ジャパが塾なしで世界最難関大学へ進学する話:後編 3/3

(本投稿は、2020年投稿のブログ記事をNoteに再掲載したものです。元記事はこちらへ。)

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前回までのあらすじ

失敗続きの高校二年生時代。ステータスはハーバード合格からは程遠く、苦悩する日々が続く。終盤になって遂にビジネスコンテストで全国優勝、世界大会出場権を獲得するなど、光も見え始めた。

4月-TOEFL 目標点到達

高校一年のうちに100点を越えようと意気込んでいたTOEFLですが、一年の11月に受験した回は77点と撃沈し、そこから三年生に上がるまで結局距離を置くことになりました。海外進学の説明会等に参加する中で、SATやエッセイ等も全く手についていない自分は、さすがに三年生に入るあたりでTOEFL100点を超えていないと間に合わないという焦りがあり、なんとしてもここで終わらせたいと、4月の受験を決意しました。学校のテスト期間からは離れていたこともあり、TOEFLの問題集をコンピューターで何度もこなしながら、TOEFL3800の単語帳をくたくたになるまで読み返す日々が続きました。電車の隙間時間には、TOEFLの勉強法、攻略法などをインターネットで読み漁ったりもしました。本腰を入れて対策をし始めたのが一ヶ月前ではあったのですが、久しぶりに過去問を解いてみると、ReadingやListeningでもある程度の高得点が見られ、「あれ、俺そんなにTOEFLできたっけ」というような所感があったのを覚えています。高校2年生の間は、単語帳を隙間時間に覚えることしかTOEFL iBTのための対策をしていなかったので不思議に思いました。一方で、高校2年時には、英語で授業を受けたり論文を書いたり、ビジネスペーパーを書いたりなど、実際に英語を使って何かをするという機会が多くあり、実践的な英語を学べていたのかもしれません。通学時間の単語暗記の積み重ね、英語を使う機会の増加、そして高校2年の終わりから高校3年の春にかけての徹底した対策の結果、そこまで自身はなかったものの、TOEFL iBT105点(Reading 29 Listening 28 Writing 26 Speaking 22)を取得することができ、次のステップに進む準備が整いました。

5月-サッカー部引退と初めてのSAT

TOEFLの目標点に到達した次のステップが、アメリカ版センター試験のSATでした。ざっくりというと、ReadingとMath各800点の合計1600点満点の試験(オプションでエッセイ試験があり、トップの大学では受験が推奨されているので僕も受験しました)で、ハーバード等のトップ大学合格には1500点あると申し分ないと言われています。ハーバードの下位25%の合格点が1480点であることを鑑みると、少なくとも1480点は取りたいという風に考えていました。しかし、5月の学年末考査等も重なり、TOEFL後の残された期間で十分な対策を行うことはできず、結果は1370点(Reading 600点、Math 770点、Essay 8/24点(2-4-2))と撃沈しました。

また、それまで授業外で大きなウェイトを占めていたサッカー部での活動に、一区切りつけることにしました。僕の所属していたサッカー部は、高校サッカー選手権で全国大会を目指すチームであったため、本来は冬まで活動がありますが、一部の部員は、受験に集中するために、5月の京都府総合体育大会を最後に部活動を引退します。小学校の頃から、選手権での舞台を夢見ていた自分にとって、途中で引退するというのは苦渋の決断でした。というのも、僕が引退することにした大きな理由は、受験で忙しくなるからではなく、自分の実力では部に残ったところで他の部員の足手まといになるという現実からでした。ハーバードに行くという点でも、自分が目標としてきたステージに立つという点でも、実力不足からの引退というのは、正直辛いものがありました。しかし、中学時代から日に日に感じるようになった実力差というものは、完全に自分の責任であり、現実を受け止めざるを得ませんでした。京都府の強豪ということもあり、Bチームでもある程度の戦力があったため、最後の京都府総体は、自分自身もスタメンで出場しブロック優勝で幕を閉じました。別に部から引退をしたからといってサッカーを引退したわけではないのですが、やはり小学校の頃から夢中になってきたものに一区切りが着くというのには思うものがありました。

6月- 世界という舞台、SAT Subject Test またもや撃沈

世界大会の課題動画。ナレッジ共有と最適化を組み合わせた教育サービスを提案した。

サッカーを引退したことによって、学校外の多くの時間が空くことになりました、しばらくはサッカーロスのような状態で家から帰ってきてもやるべきことにあまり手が付かない状態もありましたが、空いた時間を利用して、あまり充実していなかった課外活動を発展させていきました。Global Voicesという翻訳ボランティアをさせてもらっていた団体では、様々な国に在籍するメンバーに調査を行いながら団体内での若者の活動を活発にし、団体外で若者からの認知度を高めるにはどうすればいいかということを考えていました。日本で高校生の活動を取り上げるメディアの取材を受けながら、グローバルマネージャー・日本支部マネージャーからのご協力の元、Global Voices Youth Communityという、世界中で活動するGlobal Voicesの若手メンバーが交流し、外部の若者に活動を発信するコミュニティーを作成しました。Instagram等も開設し、若者向けの発信ポータルをセットアップしていきましたが、夏に3週間渡米し、夏休み明けからはSATと出願エッセイに集中したため、実質的に活動できた期間は短く、成果もある程度におさまりました。

一方で、高校2年の2月に全国大会で優勝し、国際大会への切符を手にしたSocial Innovation Relayでは、海外チームのプレゼンテーションのレベルの高さに衝撃を受けながらも、なんとか世界3位 に食い込むことができ、国際レベルでの受賞歴が手に入りました。

そして、昨年度の12月に舐めてかかった上にWorld Historyを選択する大失態を犯したSAT Subject Testですが、6月の試験でも課外活動の影響で十分な対策ができないまま挑むことになりました。基本的に日本人はMath2(センター試験より簡単な高校数学レベル)と理系科目1科目を受けて満点をとることを推奨されているため、僕もMath2とChemistry(化学)を選択しました。Chemistryを選択した理由は、もう一つの選択肢であったBiologyよりも固有名詞が少ないことに加えて高校1年時に悔しくも化学で4を取ってしまったため、自分の通うSSH校がレベルが高く、この学校で5が取れなかったとしてもChemistryで満点を取れると言うイメージをつけるためでした。ただし対策不足で挑んだため、結果は予想できるもので、Math2が680/800、Chemistryが670/800という結果で終わりました。

7月 締め括りはオール5で。先生が苦悩する学校関係書類の書類作成を依頼。そして3週間の渡米

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ニューヨーク、世界銀行にて

高校2年に入ってからは、最低限の勉強で5をとる方法がわかってきたため単なる取るに足りないイベントと化していた定期考査ですが、出願時に提出する成績に関わる試験としては最後となる考査を終了し、高校三年生にして初めてオール5をとることができました。高校一年生の頃の書道や、腰の骨を疲労骨折していたため成績が下がった高校2年の体育によって今まで惜しくもオール5を逃してきましたが、ついに態勢が整いました。

また、考査が終了するとすぐに渡米のために約1週間の公欠をとって夏休みを一足先に始める必要がありましたが、それまでに必ず行なっておかねばならなかったのが、先生へ英語での学校関係書類(学校紹介、推薦状、成績表等)をお願いすることでした。推薦状に関しては当時の担任の先生を含め、高校1年〜2年にかけて担任をしてもらった国語の先生、中学時代に担任をしてもらい、高校になっても英語の先生としてお世話になった先生の計3人にお願いしました。11月1日までには書類を揃える必要があったため、夏休み前から三人には自作の願書出願フォームと学校関係書類に関する分厚い(笑)解説を渡してお願いしていました。というのも、アメリカの大学には早期出願(Early Action) という仕組みがあり、12月末までには合否がわかえい便利であったため、SAT等の基準はある程度低いが留学生に対しても奨学金を出してくれる複数の私立大学への出願を考えていました。別の記事で述べますが、高校三年の初め頃にはハーバードよりも現在通うミネルバが第一志望へと変わりつつあり、合格すればNeed Blind(簡単にいうと年収に応じて学費が変わる仕組み)で進学が確約できることもあって当時はミネルバも早期出願を考えていました。

学校での全てのタスクが終了し、高校生外交官プログラムの高校生40人の一人としてアメリカへと飛び立ちました。ワシントンD.C.、ニューヨークで米国と世界の中枢機関を回りながら、途中でホームステイを挟み、最後の10日間をIVYリーグの一つであるプリンストン大学でアメリカの高校生と過ごすというとても密度の濃い経験をさせてもらいました。プログラム参加時の個人的な目標は、出願エッセイに向けて自分を深く知ることと、実際に英語を使えるようになることでした。本来夏休みの期間はSATの勉強やエッセイのための準備に多くを割く時間であり、遅くとも秋からはエッセイを本格的に書き始めなければならなかったため、より深く自分を知るというコンセプトの含まれた外交官プログラムはもってこいの機会でした。TOEFLは既に目標点に達していたため、試験のためにListeningやSpeaking力を向上させる必要はありませんでしたが、実際に現地の大学に合格し、アメリカで授業を受け生活していけるだけの実力がある自信はなく、本当の意味で生きた英語を習得する必要があるなと感じていました。アメリカ本土という自分の憧れの場所で3週間を過ごすことができたのは、大きなモチベーションとなりました。

8月-課外活動締め括り、自己分析とSAT

8月の上旬にアメリカから帰国し、既に夏休みが残り2週間程度になっていましたが、残りの時間でGlobal Voicesでの活動をできる範囲で仕上げました。また、アメリカ大学出願に際して、生徒は5つの受賞歴を記入することができますが、自分が当時執着していた全国レベル以上の受賞歴がどうしても一つ足りなかったため、東京に出向いて二日間の教育アイデアソンに参加し、なんとか特別賞をいただくことができました。また、9月からはどうしても大学出願に向けてのエッセイを書き始める必要があったので、エッセイのネタ探しを、自分の過去の体験を深掘りしながら自己分析することで行っていました。

9月-SAT特訓、エッセイを書き始めたいと思う日々

9月になって学校が再開し、最終学期に突入したことで、米国大学受験がいよいよ正念場となってきました。SATの受験を10月、11月(Subject Test)、12月に残し、エッセイを書き終えて最終的に全てのアメリカの大学への出願が終了するのが1月半ばなことを考えると、いよいよ時間が限られてきました。

特にSATに関しては、早期出願を狙うのであれば10月の試験がラストチャンスであり、公式問題集での演習と単語帳の暗記を繰り返しながら目標点到達に向けて力を注ぎました。目標点はReading 700点(最低でも680)、Math800点満点、Essay 18/24点以上。前回からSATは130点、Essayは8点上げる必要があり、かなりのギャップがあったため力を入れる必要がありました。SATのMathは簡単な計算問題が多く高くても高校一年生レベルなのですが、Readingに関しては英語で現代文を解いているようなレベルであるため、TOEFLとは段違いの難易度でした。Essayに関しては、前回最低点に近い点数を取り、そもそも何をすればいいか右も左も分からない状態であったので、面識はありませんでしたが、たまたま学校に在籍されていたアメリカ出身の英語の先生に添削をお願いしに行き、Analytical Essayの書き方をゼロから教えていただくことができました。5月に受験したSATでも、EssayのAnalysisの部分がいわゆるゼロ点であったため、本当に何もわかっていない状態で、焦りがありました。

そんな中、エッセイはただでさえ急がなければならないのですが、塾に通っていなかったためにエッセイ作成についてのサポートは受けられなかったので、頭の中では自分をこのように伝えるべきだという方向性がぼんやりとはあったものの、いざ書き始めるとしっかりとした形にすることができず、、そもそもドラフトを書き上げることすらできない状態でした。結局自己分析が足りないのではないかと考えて、エッセイを書かずに自己分析を進めたりしましたが、進展はなく、ほとんどエッセイが手付かずの状態が続きました。

10月 SATと定期テストのダブルコンボ地獄

5月の試験終了から着々と準備を進めてきたSATですが、試験1週間前の追い込み時期に大問題が発生しました。SATに集中したいのに、定期考査が行われるという地獄スケジュールが発生したのです。日本の大学入試で置き換えると、週末にセンター試験があるのに、その週に定期試験が行われるといったような状況が起こっていました。定期試験とSATはなぜか日程が近いことが多く、これまでも起こってきた事態ではあったのですが、正念場となった秋にあまりのドンピシャぶりであったため、もはや笑わざるを得ない状況でした。SATの勉強もしたいけど成績も絶対に落とせないと言う状況であったため、当時の1週間のライフスケジュールは、

帰宅後、日が変わるまで翌日の定期テスト対策→起床時刻の1時間半前までSAT対策

というブラック企業社員のような生活を送っていました。

10月のSATは、前回までは京都の会場で受験できていましたが今回は枠が取れず名古屋の会場で受験することになりました。SATは試験が朝9時から始まるという超朝方の試験なのですが、試験前日に当日京都から向かっても間に合わないことに気づき、定期考査終了後急遽前泊で名古屋に向かったのを覚えています。

結果、テスト終了後は1週間のブラック企業スケジュールのせいで吐き気を伴う強い眼精疲労に陥りましたが、Readingで650点、Mathで730点、Essay17点(6-5-6)と、ReadingとEssayの点数が上がり、ある程度納得できる点数になりました。合計点は1380点で何も変わってないしむしろMathの点数下がってるじゃないか!という話ですが、10月の段階でReading650点を取れたことは自分にとってある意味担保となりました。もちろん、これだけやってまだ50点しか上がらないのか、という気持ちもありましたが、多くの米国の大学にはsuperscoreという仕組みがあり、それらの大学は複数の試験の各科目の最高点を組み合わせて得点を見てくれるため、次回Readingの点数が上がらなくてもMathで満点を取れた場合、10月のReading最高点の650+800で1450点として見てくれるという保険がありました。Harvardの下位25%である1480点にはそれでも届きませんが、StanfordやPrincetonなど、SATのスコアにある程度寛容な大学では、下位25%が1450点前後であるため、SATで1450点を取ることは本当の最低達成ラインでした。

11月 Early Action断念。学校書類にトラブル発生、SAT Subject Test最後のチャンス

11月の始めと半ばに早期出願の締め切りがありましたが、結局断念することになりました。ハーバードに行くぞとみなぎっていた当初は、合格率の高いここで勝負すると意気込んでいましたが、早い段階で間に合わないことが明確になり、なら滑り止めをここで決めておこうと切り替えていましたが、それらの大学に必要な共通エッセイを書き終えることもできませんでした。アメリカの大学に提出しないといけないエッセイは二種類で、どこの大学にも求められる共通エッセイと、大学によって課される追加エッセイがあります。滑り止めの大学には追加エッセイがない大学を選んでいたにもかかわらず、そもそも共通エッセイがこの段階でもドラフトすら書き上がっていなかったため、提出することができませんでした。

そして、3人の先生に作成をお願いしていた出願書類ですが、AETの先生とともに大変苦労されながら作成・提出を進めていただき、11月までに完成させてくださいました。自分で全て説明資料を作成して一からお願いしないといけないのは大変ですが、僕がよく海外進学体験談で目にしていた、生徒が全て書類を先生に代わって書いたり、先生に要求を飲んでもらえなかったりといったトラブルは全くなく、先例のない事態にかかわらず質問があるとき以外は先生側で全面的に引き受けていただけたことは大変支えになりました。しかし、全面的に引き受けていただき、自分が完全に安心し切った中で、大きなトラブルが1つ発生しました。

簡単に説明すると、担任の先生に提出してもらうはずの学校紹介が当初提出されていなかったため、提出をお願いしたところ、手違いで成績書と入れ替える形で学校紹介が提出されてしまいました。すなわち、自分の成績の代わりに学校紹介が見られてしまうと言うとんでもない状態になってしまったのです。そして厄介なことに、先生の提出書類は一回のみ変更が許されていますが、その一回の変更でミスが起こってしまったため、ポータル側からはなんともできない状態になってしまったのです。そこから芋づる式にミスが発覚し、GPA(アメリカ式の学校の成績)の評価基準が違っていたり、全校生徒数が7人になっていたりと、受験で大きな誤解を生みかねないミスが至る所に発生していました。自分が先生にお任せするあまり提出前の確認を怠ったのが悪いのですが、当時は「分からへんのに確認せずに何勝手なことしてくれとんじゃ!」(実際には言ってません)と、ほぼブチギレの状態でした。今まで死に物狂いで積み重ねてきたものが、もし学校側の書類ミスで白紙になってしまえば、今まで費やしてきた労力はどうなるんだと、怒りと焦りが入り混じった精神的に不安定な状態に陥りました。解決策を探すために、当時コンタクトを持っていた海外進学塾の運営の方に連絡し、塾生でない自分に親切に各大学に出願後先生からすぐに訂正のメールを送るようにアドバイスをくださりました。また、出願予定の大学からも、学校側のミスはあなたのせいではないからそれが合否に関わることはないよと返答をもらい、事態は事なきを得ました。ミネルバ含め合計25校に出願したので、それぞれの大学に別のメールを送らなければならないのは大変でしたが笑。

10月のSATが終了してすぐに、11月の最後のSAT Subject Testに向けて準備を始めました。アジア人は理系科目に強いと見られる傾向があるため、Subject Testでも満点をとることが望ましいとされますが、今までの受験では700点台にも乗ったことがないため、分からないところを徹底的に潰し、読み間違い等もゼロに近づける必要がありました。Chemistryに関しては文系で化学基礎と化学の触りしか学校では演習していなかったため、アメリカならではの範囲や、高校化学に該当する範囲の問題にも対応する必要がありました。教材で演習を重ねながら、分からないコンセプトや問題があれば、日本語に訳して化学の得意なクラスメートに教えてもらい、知識だけでなく「なぜ」そうなるのかというコンセプトのところまで徹底的に埋めて行きました。受験勉強で忙しいにもかかわらず、学校外でもLINE等で何度も丁寧に質問に答えてくれた友人には感謝してもしきれません。とにかくSATの教科書から分からない部分を一切なくし、過去問でしっかりと満点が取れるようにして行った結果、あまり自信はありませんでしたが、Math2、Chemistry両方で満点をとることができ、残すはSATとEssayだけという状態になりました。

12月 最後のSATと後悔だらけのエッセイ地獄

11月のSAT Subjectが終了し、残すはSATとEssayという状態になりました。SATに関しては、まずMathを満点まで引き上げることを最優先事項とし、対策をしていきました。内容的には高校一年生レベルで非常に簡単な試験である一方、読み間違いや凡ミスによって満点獲得を逃してしまう試験であることから、過去二回でも満点をとることができないでいました。SATの公式練習問題を出しているKhan Academyの動画等で必要なコンセプトをしっかり抑えながら、過去問で自分のミスする癖や注意すべき点を洗い出し。徹底的にミスをなくすトレーニングを行いました。Essayに関してもアメリカ人の先生からの添削を行ってもらい、目標点を目指しました。その一方で、10月に最低限の点数を確保できていたReadingへの対策はなおざりになってしまいました。本来であればより点数を上げていかなければなりませんが、とにかくMathで満点をとることが一番の得点アップ方法であったため、そこに集中していました。その結果、Mathは満点に達し、Essayも18点(7-5-6)の目標点に達しました。しかし、Readingに関しては完全に迷走し、本番前夜に戦略を変えたこともあって初回の600点より低い570点を叩き出しました。出願先はSuperscoreを取り入れている大学ばかりであったため、実質的には1450点という点数を確保することができ、なんとか崖にしがみついている状態で最後の関門、Essayへとコマを進めました。

さて、3年間の集大成としてエッセイ執筆に集中する時がやってきたわけですが、もう12月です。ほとんどの志望大学の出願締め切りが1月1日であり、時間がない中で共通エッセイすら書き終わっていないという遅れに遅れた状況でした。とにかく一度書き切ってしまえばAETの先生に添削をお願いすることができるのに、そもそもエッセイを書き切るというところまでいくことができずに9月からずるずると遅れをとっていきました。あまりにも共通エッセイが終わらないため、並行して各大学のエッセイも構想していきながら、先生に共通エッセイを初めて添削してもらえる段階に至ったのが12月初旬だった気がします。結局、締め切り間近まで共通エッセイをできる限り改善しながら、出願校25校のうち約10校で求められた追加エッセイを急ピッチで仕上げて行きました。お題が似ていて使いまわせるエッセイもありましたが、大学によっては複数の追加エッセイを求めてくるところもあり、なかなか書き終えることができませんでした。塾に通っていない僕がエッセイを添削してもらえるあては、学校のアメリカ人の先生、AETの先生、アメリカに帰国なさった元AETの先生とほぼ学校に依存していましたが、12月下旬には冬季休業に入ってしまい今まで頼っていたアメリカ人の先生が帰国されることになったため、書き終えていないエッセイが大量にある中で添削してもらう人が完全になくなりかけていました。そんな中で、職員室に伺って在籍されている二人のAETの先生に、学校が完全に閉まる28日までいらっしゃる方はいないか尋ねに行ったところ、カナダ人の先生が最後まで残っているからいつでもエッセイを持ってきていいよと仰ってくださり、ネイティブからの添削を年末まで受けられるようになりました。冬季休業に入ってからも学校で国内受験の勉強をしている仲間の横でMacbook airの画面に向かって、アイデアを振り絞りながらエッセイを書き続けました。終盤は肉体的にも精神的にも疲弊していて、文章が全く書けず、眼精疲労で全く進められない時もありましたが、進路は違えど共に頑張っている仲間からの理解と、AETの先生からの暖かい言葉に励まされながら、休校までできる限り書き進めました。結局人から添削をもらえる最後の期間までに完成させられたエッセイはほとんどありませんでしたが、最後まで協力してくださったAETの先生には本当に感謝してもしきれません。

学校が閉まってからは、年末で知り合いにも添削を助けられるような状況ではなく、かといって今更有料のエッセイ添削サービスを使うような余裕もなかったことから、機械添削のGrammalyの有料版に僕のエッセイ添削者になってもらうことにしました。クリスマスプレゼントに親からもらったスターバックスギフトカードを持って年末年始、近くにあるスターバックスに自転車で通い詰め、なんとか提出ができるようにエッセイを間に合わせようとしていました。今まで3年間、成績や、テストや、課外活動など、様々な努力があった一方で、人柄やその人のストーリーを見る一番重要な要素のエッセイの出来が悪くてもし印象が下がったりそもそも出来上がらなくて夢の大学に志願すらできなかったら、残念どころの話ではないということに気づき、もっと早めから自己分析以前に書き切ることを重視してエッセイを進めておくべきだったと、後悔の念にも駆られながら、集大成として、今自分がぶつけられるものを全てぶつける気持ちでエッセイを書きました。年末年始を返上して締め切りの数分前まで修正を続け、ギリギリでなんとか提出し、僕の3年間にわたる米国大学受験生活が少しずつ幕をおろして行きました。

1月 ミネルバを受験し全志望大学出願完了

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最終的に出願した大学。IVYリーグ校やリベラルアーツ含め合計24校に出願した

1月1日、2日に大多数の大学への出願を完了し、少し締め切りが先立った大学と締め切りが2月のセーフティー校に出願し終えて、3年間にわたるアメリカ大学受験が幕を閉じました。

僕が今通うミネルバ大学は出願締め切りが1月15日だったので、少し出願が落ち着いてから集中して受験に挑みました。

この時点でミネルバが第一志望であり、いわゆる専願で受験し二月に合格をいただくことになるのですが、今までの記事を読んで、「一体いつの間にハーバードからミネルバに第一志望が変わったんだ!?」や、「なぜここまでやっておいて他の大学の結果を知ることができない専願を選んだの!?」と言う疑問をもたれる方もいると思います。これについては、受験終了後のストーリーも含め、最終話となる次回にお話しします。

おまけ ノー勉でセンター試験を記念受験した話

この記事の最後に、アメリカ大学受験終了後にセンター試験を記念受験したお話を少ししたいと思います。

多くの生徒が京大東大を始めとする国公立を目指す(自称?)進学校に通っていたこともあり、センター試験を受けると言うことには単純に憧れがあったので「受験勉強なしでどれくらいセンター試験で点数を取れるのか」調査するためにセンター試験は記念受験することにしました。同級生も同じ会場にいたので、彼らを全力でサポートするのを最優先事項としつつ、自分自身は日本の高校生のビッグイベントを存分に楽しむべく試験に挑みました。理社では、三年時に選択していた世界史Bを問題を見て、「あ、これ日本史やった方が点取れるわ多分」と予定を急遽変更して日本史Bを受験したり、生物基礎がピンとこなかったのでSATやったしなんとかなるやろと、過去問すら解いたことのなかった化学基礎を受験するという完全に受験を舐めた所行をしていましたが、総合得点率8割と言う結果に終わりました。一番驚いたことは、同じ学校で同じコースに在籍していた国内大学受験生よりも未対策の僕の方が点数が高いことがざらにあったことです。いやお前が頭いいだけだろという批判が来そうな表現なので先に明確にしておくと、ここで指している国内大学受験生は僕と同じように中学受験をして入学したある程度地頭の良い中高一貫のクラスメートのことです。

ここから学んだのはいかに学校の勉強がセンターにおいて重要かということで、もちろん自分の学校でそれに向けた対策が授業として行われていたり、英語、化学、政治経済等に関してはセンターとは関係ない課外活動や米国受験で勉強していたと言うのも大きいですが、オール5のためにがむしゃらに定期テスト対策することとセンター試験の得点の相関が垣間見られた経験でした。


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