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四半世紀生きた

ジョホールバルの歓喜から1年と2日。フランスでW杯が開かれ、既に敗退が決まっていた中、ゴン(中山雅史)がジャマイカ相手に日本代表のW杯初ゴールを決めてから約半年。静岡県沼津市の中ではそこそこ大きい病院で僕、誕生。だいたい毎年、しし座流星群のピークタイミングで、その日も綺麗に見えたそう。

川崎に移り、よみうりランドから1番近い地元の小学校・中学校(身バレ覚悟)で、いわゆる「普通」の生活を送っていた。特別なことといえば、東京ヴェルディのサッカークラス的なコーチが元なでしこJAPANの澤穂希さんと大野忍さんだったことくらい。
中学校では吹奏楽部へ。サッカーか野球か、吹奏楽かで消去法だった。文化部が美術部か吹奏楽しかなかったし、他の面白そうな運動部もなかったので。ドラムはそこから。気づけば13年目突入。

中学3年生の夏休み。普通の人間を貫いていたので、普通に神奈川か東京のお受験戦争に巻き込まれるはずだった。2日目に交通事故で膝が折れた。
良く言えば1ヶ月間入院だったので、「受験の天王山」なんて言われる夏期講習を回避、悪く言えばサボれる環境が綺麗に整った。結果、推薦が取れないくらい成績が落ちた。
でも相変わらず勉強は嫌いだったので、夏休み明けから3ヶ月後に試験があるスイスの高校に。なんか受かったのでそのまま進学を決めた。

初めての寮生活・初めての海外での暮らし。スイスで3年間暮らした。音楽で賞も取った。個人ロッカーを開けたら譜面が入っている、拒否権のない音楽生活していれば嫌でも上手くなる。実際音大の推薦の話も出たくらい。でも嫌だった。
この頃は「もう海外はいいかな」なんて思っていて、日本の大学に進学したのもそれが理由。

日本に帰って来てから、「普通」に戻ろうとしていた。というか、周りのレベルの高さに圧倒されて、自ら伸び代に止めをかけていた。
他責思考になってしまうが、教免を取るための別枠授業で運悪く、風邪をひいているのにマスクをしない奴の隣になってしまい、見事に移されたり(部屋に席を移動できるキャパがなかった)、ブラック企業のバイトを引き当ててしまったりでメンタルが崩壊した。

で、例のウイルスが流行った。元々少なかった友人とたまに会う時間が完全に0になってしまい、実家に避難したらしたで見たくない現実まで見てしまい、負の連鎖に。
「結局、何をやりたいんだろう」ってこの辺りから考え出した。もう大学3年だった。

そこからは惰性で生きてしまい、気づいたら2022年の9月。もう1年大学にいるか、スパッと辞めて就活をするか。後者を選んだ。
とはいえ、何ができるか、何をしたいかは全く分からなかったので、また惰性で就職支援のサイトに登録した。そして、その日の夜にノマドニアを見つけた。

そこからの決断は早かった。
就職支援を3日で辞退して、高速警備のバイトに応募、ノマドニア参加のための情報収集。
見れば見るほどワクワクするし、高速警備中の心の支えにもなっていた。5日で300キロ歩くの、本当にキツかった。
誕生日の2日前くらいに、当時付き合っていた彼女から別れ話を切り出された。そりゃそうだ、いきなりジョージアなんて国に行くなんて言い出して、ほぼ毎日寝る前に電話していたのをいきなり高速警備のバイトを入れて電話もしなくなっていたのだから。
結局その人とは年明けに別れた。結婚の話とかもしていたからだいぶ応えた。

去年の誕生日は宿河原陸橋の上で迎えた。東名高速道路を運転ではなく歩きながら迎える人、本当にレアだと思う。低体温と雨のせいで風邪をひいても歩き続けていた。泣いてもいた。

それから1年が経ち、25歳になった。
日本で何者になりたいか分からず燻っていた男は、ジョージアを拠点にたまーに欧州にふらっと遊びに行く生活になり、新しい友人や尊敬する人ができ、盛大に祝ってもらえる人達にも出会うことが出来た。

これからの25年、どこで誰と出会い、何をしているか。今は先が見えなくても、とてもワクワクしている。

PS. 誕生日から1週間。胃腸が完全に活動停止し、全く仕事が出来なくなっていた。明日から頑張ります。

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