掌編小説「individual」

空の中を鷲が飛行していた。鷲にとってその飛行に明確な目的がある訳では無い。しいていえば、食べ物の調達という手段の一つではあったが、それは動物の宿命であるため、もはや日常の習慣と化していた。習慣というものは、意志よりも先に身体が動き出しているか意志の下で身体が抵抗しにくくなっているかのどちらかである。鷲にとって飛ぶことはなんら不思議でない自然なことであった。
鷲は飛んでいる間も視野は広く、地上の動きはよくわかるものであった。その日、鷲の視界には豹が草原を駆け抜けている姿を捉えていた。豹は山に向かって駆けていた。彼にとっては駆けるということは、自分自身の現存在が生きていることへの確かな証明だった。それを不確かなものというにはあまりにも身体の躍動や息遣いが激しくて、自身の痛みを豹は感じずにはいられなかった。だが、豹が自身のなかで何を思っていても、豹を見ている鷲にはわかるわけがなかった。鷲は、その豹に興味を抱いたというよりも、自身の飛行している道と同じ方向に豹が駆けているものだから、しばらくは豹を視界が捉えているに過ぎなかったのである。豹にとっても頭上に鷲が飛んでいるとは認識の外であった。この豹と鷲を比較するなら、鷲の方が切羽詰まっていなかっただろう。事実、豹の眼の前に熊が現れると、豹は叫び声を挙げて熊を動揺させたが、鷲はその様子に気づくとあっさりと進行方向を変えたのだった。
 この鷲は同じように自分の眼の前に別の猛禽類が現れたとしても、闘わずに進行方向を変えたことだろう。余計な争いは避けていたのである。その進行先で地上に小動物を見かけると素早く急降下して、狩りに成功したのであった。小動物は自分が空に高く上げられることとこの怪鳥に殺されることへの二重の不安を感じていた。不安のあまりにその小動物が鳴き声をあげると、鳴き声は地上の青年に聞こえたのだった。青年が見上げると鷲が空中で小動物を脚で捕まえながら飛んでいるのを確認できた。特に青年は狩りをする気ではなかったが、背に抱えていた銃を取り出して、鷲に銃口を向けた。そして発砲したが、鷲の移動が速くて一発目は鷲には当てることができなかった。その銃弾が空中を鋭く裂いて行ったので、空中に動きがあったことで鷲はこの青年に気づいたのだった。鷲にとってこの人間は見たことなかったが、銃口を自分に向けていることがすぐわかると恐れを感じた。なぜ、この人間が自分を狙っているのか、それは捕まえた小動物に原因があったことには気付けなかった。青年はもういちど、銃を構えて鷲に向けた。それは鷲が既に青年の遥か先に進んでいたあとだった。鷲は注意を後ろに向けていたから、なんとかこの銃弾を躱すことに集中していた。だから、発砲されたあと、鷲はどの方向から音が聴こえたか耳を澄まして、急に翼の力を弱めてすとんと落下したのであった。そうすることで、二発目の銃弾も鷲には当たらなかった。青年の視界から鷲が見えなくなって、青年は小動物を救えなかったことを悲しんだ。鷲は一旦弱めた翼をまた力を入れて低空飛行しながら、自身のねぐらへ帰ったのであった。ねぐらへ着くと既に小動物にはかぎ爪が鋭く身体を挟まれていたので、小動物は身動きが取れず、自身の命の終わりを確信したのであった。この鷲は今日の夕飯を分け与える必要はなく、ねぐらにはこの鷲しかいなかった。鷲は慎ましく食事を済ませると体を休ませることにした。
その頃、熊といがみ合った豹もこの事態を切り抜けたが、たどり着いた山の先で眠りについた。豹に吠えられた熊は住処へ戻ると子熊が帰りを待っていたので戻る途中で拾ったどんぐりを子熊に分け与えたのだった。青年はといえば、家について今日起きたことを家族に伝えたが、家族にとっての関心はこの出来事ではなく、込み入ったことを青年と話し合っていたのですぐに話題が移り変わった。青年は話し合いから自身が逃げられないことを悟ると、仕留め損ねたあの鷲の姿が脳裏に浮かんで、その鷲の機敏さ、雄々しい姿に羨ましさを抱くのであった。


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