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「あれから10年」今になって分かった母の気持ちと想い、そして強さ


東日本大震災3.11 から10年

たくさんの亡くなられた方々の
   ご冥福を心よりお祈り致します。

20代前半まで生まれ育った
  地元(岩手県)を離れ関西で生活していた私。

あの日の私は某イベントへ参加し打ち上げと反省会を兼ねた飲み会を終え帰宅したのが23時頃でした。

帰宅後ほっと一息ついたところでテレビをつけると地元が津波に襲われている光景が映っていました。
何かの特集番組かと思いチャンネルを変えた。
やはり津波の光景でした。

えっ?何これ!何これ!
嘘でしょう? えっ?なんで?と呟きながら
チャンネルを何度も何度も変えて映し出される
光景を見ながら、ただただ唖然・呆然でした。

ふっと我に返り直ぐ実家と母親に電話
         当然、繋がる訳がありません。

テレビに映る光景を見ながら繋がらない電話へ
泣きながら掛け続けた事を鮮明に覚えています。


誰の声も聞こえず聞かずの恥行動

テレビに映し出される光景を見ながら朝を迎え
電話も繋がらないままでした。

私は不安と衝撃で冷静さを失っていたのでしょう。
息子(当時10歳)を交際相手へ行くのを反対されるのも聞かず無理やり預け運送関係者の知人、友人に電話連絡し連れて行って貰えるよう頼みました。

もちろん反対され
状況が分からないし走れないと断られました。

結局、交際相手の彼が自分の実家へ
反対されながらも息子の面倒を頼んでくれて向かえる事になりました。

近所のスーパーやドラッグで片っ端から買い込み
(水・SP飲料・缶詰め・レトルト食品・カイロ等々)

毛布やカセットコンロ、ボンベ、電池、お米、鍋等を積み込み出発したのは3.12の お昼前でした。

東北迄は何とか行き着けたものの関係車両渋滞や通行止めによる規制や迂回を余儀なくされ東北道へ入ってから思うように進めず大変でした。

地元目前まで辿り着けた時
既に3.13の夕方を過ぎていました。

地元目前に先は関係車両以外
立ち入り禁止と言われ足止め状態になりました。
何とか頼み込んで車を置き明るくなってからと言うのを条件に徒歩で向かう事を許して貰い積み込んだ荷物の持てるだけを持ち再出発したのが3.14早朝

途中途中で自衛隊車両や物資輸送のドライバーさんに助けられながらも歩き続け市内に辿り着けたのは
3.14の15時くらいだったと思います。

歩きながら目にする光景は唖然・唖然
言葉も出ず涙だけが流れ私の知ってる地元は影も形も無く変わり果ていました。

そこから避難所、安置所を幾つも回り
母親と逢えたのは3.15市民病院のロビーでした。



母親の気持ちと想い

3.15 避難所になっていた市民病院ロビーで母親を目にした時、母親は おにぎりを配っていました。

私は安心感で涙だが溢れ母親に駆け寄りました。

そんな私に母は
「何しに来たの?今おにぎり配ってるから邪魔 」と私に言うと、おにぎりを配り続けました。

おにぎりを配っている顔と違い
とても怖い顔をしていたのを忘れません。

その後、配り終えた母親が近くに来て
私の交際相手へ
「この子の我儘だよね〜 ごめんなさいね 」
「また大変な思いさせて申し訳無いけど状況が状況     で何もして上げられないし連れ帰ってくれる」と言いガソリン代にして下さいと濡れた1万円を出した事に胸が熱くなりました。

それから私とは口を聞いてくれず2日間 母と一緒に
避難所で物資運びや配布のお手伝いをして実家へ戻る事になりました。

母と私は無言のまま
自衛隊の輸送車で近所まで送って貰い実家へ到着

実家へ到着し中へ入るなり母親から突然のビンタ

びっくりしたのと気持ち想いが溢れ泣きながら
「 何で?どうして?心配して来たのに 」と言う私

そんな私へ母親は
「 しっかりしなさい! 親は子供が心配なの。
 貴方達の安全が分かって居るから、お母さんは
 避難所で安心してお手伝いしてたんだよ。
 なのに周りを振り回して迷惑かけてまで何故?
 わざわざ来たの?冷静に考えたら分かる事だよ」

「お母さんは、そんな事も分からない考えられず
 行動した貴方が恥ずかしいし情け無い。」

「けど、たくさんのカイロや缶詰め ありがとう。
 重かったよね〜 大変だったよね〜 」と言い泣きながら抱きしめてくれました。


あれから10年
  母が初めて語る弱音と強さ


あの時の自分を振り返る。
とても恥ずかしい間違った行動をした私。
周りを振り回し自分の感情だけで動いた私。

今コロナで帰省出来ない為
最後に地元へ帰省したのは2年前

帰省時、母と市内を歩き三陸の海沿いをドライブし三鉄にも乗りました。

私、三鉄に乗ったの20年振りくらいかな?
母は、いつ乗ったか覚えてないらしい(笑)
三鉄に2人で乗り海を見ながら母は8年前の気持ち想いを話してくれました。

地震、津波は凄く怖かった。
自分が、どう逃げたかも分からない。
膝近くまで水が来た時は無理だとも思った。

高台に何とか辿り着いた時
悲鳴や家族の名前を泣き呼ぶ声
「早く上がって来い! 頑張れ〜!もう少しだ〜」と頑張って津波から逃げて来る人に声を掛ける人達がいて皆、必死だった。

目の前は真っ黒な波が何度も押し寄せ街を飲み込み破壊していく凄まじい光景が広がっててね。
本当に本当に怖かった。

津波が引いて避難所へ向かう時は更に凄い光景で
自然と涙が出て止まらなかった。
それと同時に不謹慎だけど貴方達は確実に生きてる今を乗り越えたら確実に会える。
だから頑張ろう!って思えた。

けど避難所は暗くて寒くて食べる物も無くて
子供達は泣いてる子もいて辛かったし寂しかった(泣)
震えと孤独に耐えながら貴方達との楽しい思い出を振り返り携帯で何度も写真を見返してたよ。

そしたら勇気と元気が出て来てね〜!
「よ〜し貴方達に会える日まで頑張るぞっ!
   元気で明るい いつもの母ばぁばで会うぞ〜」

母は、そう言って
泣き顔から笑顔に変わりガッつポーズしました。

母が寂しかった。怖かった。孤独だった。と弱音を吐いたのは初めての事でした。
いつも強くて明るくて厳しくも優しい母

やっぱり人生の尊敬できる先輩
    憧れ目指したい母だと私は思いました。


復興が進み私が知る生まれ育った街は、ほぼ様変わりし新しい街へと生まれ変わっていました。

まだまだ復興途中
新たな住みやすい街、人が集まる街、楽しく笑顔で活気溢れる待ちの姿を夢見、願っています。



追伸:まとまらず汚い文章で申し訳ありません。
   あれから10年そのままを文章にしました。



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