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釉下彩と盛上による富士絵のカップについて

この度アメリカより入手した、美しい富士絵が施された卵殻手のカップについて考察します。

小ぶりのデミタスサイズで非常に薄造り。青磁風の淡いグリーン地は釉下彩によるもので、近景には吹絵による表現もみられます。

富士山の冠雪部分は、器体に白泥をのせた"盛上"によって表現されています。

盛上とは、いわゆる"Pâte-sur-pâte" のことで、古くは中国・明時代から行われていたといわれており、ヨーロッパでは1851年頃にフランス・セーヴルのおいて新しい技法として完成させています。イギリス・ミントンには1870年にセーヴルの技術者ソロンが招かれ、その技法を伝えています。ドイツ・マイセンでは1871年にハインツによって完成され、1897年以降にこの技法がしばしはユーゲントシュティール様式の作品に見られます。1900年前後になるとヨーロッパ諸窯で研究・開発されています。

西浦焼釉下彩白盛鳥図花瓶
1899-1911年頃
横山美術館 蔵『瀬戸 美濃の美』図録 より

日本の先駆けとしては、1897年頃より美濃・西浦焼や京都・松風嘉定の作品に用いられています。

本品の裏には染付によって "田代" といれられていることから、田代商店製とみられます。

田代銘 金襴手風 C&S
明治時代
井谷善惠 著『ニッポン・コーヒーカップ物語』より

私がこれまで見たことのある田代商店製の品といえば、九谷風の少々粗雑な上絵付の作品や、ノリタケ風の派手な作品のイメージでしたが、本品はそれらとは異なり、高精度かつ上品な仕上がりで、これまでの同社のイメージが塗り変わりました。

富士絵のカップといえば深川製磁

意匠や装飾は、有田・深川製磁や美濃・西浦焼の釉下彩作品の影響を強く感じられます。西浦焼による釉下彩作品は1899-1911年頃に製作されたので、今回の品もその期間に当てはまると考えられます。

田代商店は江戸末期に肥前(有田)の陶工・田代助作によって起こされ、1870年代には横浜・弁天通2丁目(現在の中区弁天通)に店を構えていました。

その後、名古屋へ支店を出し、最終的には素地の生産地にも近く合理的との考えから、本社も名古屋へ移っています。

瀬戸・加藤勘四郎(左)  今回の田代商店(右)

同時期の瀬戸・加藤勘四郎による絵付が施された品の素地と酷似していることから、本品の素地は瀬戸製なのではないかとみています。

絵付や取扱については、名古屋か横浜かはよくわかりません。有識者の方、ご見解を伺えましたら幸いです。


《参考文献》

井谷善惠(2023).『ニッポン・コーヒーカップ物語』
横山美術館(2018).『時を超えて心揺さぶる カップ&ソーサー』図録 
横山美術館(2021).『瀬戸 美濃の美』図録 
高木典利(2000).『西浦焼』



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