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幕末から明治にかけての瀬戸染付について

2022年の8月3日水曜日。最高気温38℃にせまる中、灼熱の瀬戸の街を訪れました。

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瀬戸電を降り、藤井聡太氏の垂れ幕を見上げながら、誰もいない末広町商店街を抜け、さらに進みます。

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瀬戸染付工芸館に到着。

目指すは交流館2Fの染付展示室。

幕末から明治にかけての瀬戸染付の銘品を拝見しながら、その技術や歴史について学ぶことのできる空間でした。

そもそも染付とは、一般的には磁器の素地に酸化コバルトを含む顔料で絵付を施した焼物です。


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■染付鳳凰紋カップ&ソーサー 明治前期 「大日本加藤製」銘        瀬戸染付工芸館 展示品


瀬戸でも江戸後期 (19世紀初め) には、加藤民吉らによって染付磁器が生産されるようになり、明治になると焼物を含む日本の工芸品は外貨獲得のための輸出品として隆盛します。また、染付磁器も海外で開催される万国博覧会に出品され、国内外から高い評価を得ていきます。

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■印版染付カップ&ソーサー 明治中期 加藤新三郎「新葉園」銘    瀬戸染付工芸館 展示品


瀬戸染付の特徴としては没骨 (もっこつ) 技法と呼ばれる、主に付立筆を用いて一気に描かれる絵付けがみられることです。

この絵付けでは、有田などで用いられる、細筆で輪郭線を描き (割描・わりがき) 、その中を顔料で埋める (濃み・だみ) という技法とは異なり、絵画的な表現が駆使されます。

この没骨技法は、江戸後期に瀬戸を訪れた横井金谷や伊豆原麻谷などの本画師によってもたらされました。その繊細で細密な、呉須の濃淡による表現は海外からの人気も集めました。

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■花卉図紋カップ&ソーサー 1878〜85年頃 「開洋社 平九製」銘       Ryo antiquecups 取扱品


しかし、大正、昭和の頃には産業技術の発達に伴い、瀬戸染付も型紙や銅板転写を用いた量産的な方向へ移行し、手描きの技術は衰退していきました。

欧米輸出向けの、幕末から明治にかけての瀬戸染付の品々には、日本の技術力や美意識を客観的な視点から楽しめるのも魅力であると思います。

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