あいうえおもいで 【く】

【く】or【ぐ】グリーティングカード

喜んでくれて、また出来を褒められるのが嬉しくて、子どもの頃によくグリーティングカードを手作りしては祖父母に送っていた。

綺麗な包装紙や色紙を切り貼りして絵にしたカード、フェルトを切り貼りしたカード、拾ってきた綺麗な落ち葉を貼り付けたカード、季節のイラストを描いたカード、祖母が好きだという緑色の絵の具を使って模様を描いたカード...。
直径2ミリほどのビーズを、ピンセットとボンドで台紙に隙間なくびっしり並べて、ドット絵のようにしてケーキのイラストを描いたバースデーカードも作った。このアイデアを思いついた時は子ども心に「なんて斬新な思いつき!」とワクワクしたけれど、いざずっしりと重いカードが出来上がってみると、本当にこれで良かったのか、ただ重いだけで祖父母は困りはしないだろうかと思って、送るのをほんの少し躊躇した瞬間のこともかすかに覚えている。

やがて中学生になり、高校生になり、やれ友達との遊びだ、部活だ、受験だなんだと忙しくなると、祖父母へカードを書く機会は少なくなっていった。母に勧められて時々は書くものの、何とメッセージを書いたらいいのかわからない。今日あった出来事を無邪気に報告するだけのメッセージで済ませるのはもう子どもっぽいのではと思う程度には自意識も育ってしまい、夏休みにそちらに行くからねと明確な約束を書くこともできない。
結局「お元気ですか。からだに気をつけてね。また遊びに行くね」という、テンプレートのようにしか書けない手紙を形式的に送るだけになっていってしまった。ちょっとしたイラストを加えたり、デザイン的なアレンジをすることは変わらず好きだったので、そういった加工が少しプラスできただけでもまだマシだっただろうか。

さらに何年か経って、私が社会人になったある年のこと。

祖母が80歳を過ぎて亡くなった。
葬儀も済み、祖母の遺品を母や叔母たちと整理していた時。
お菓子の古びた紙箱の中から、私が送った歴代のグリーティングカードや手紙の束が出てきた。それぞれのカードの隅に祖母の字で小さく、○年○月○日と書いてある。受け取った日付だろう。
祖母は大事に保管しておいてくれたのだ。
取り出して一枚一枚を見返し、高校生の頃に書いた自分の無難なメッセージを見て猛烈に、本当に猛烈に後悔した。「ああ、自分の元気な近況をただ一言書くだけで、祖父母はきっと十分喜んでくれただろうに、なんて、なんてつまらないことしか書けなかったのだろう」と。その後悔と衝撃の感覚は、膝から崩れ落ちるとはこういうことかと思ったほどだ。実際は畳の上に座っていたけれど。
当時の自分に「いいからとにかく日常のことを書いて伝えろ!以上!」と言いたい。

今でも誰かにグリーティングカードや手紙を書くたび、形式に縛られたつまらないことだけを書いてしまいそうになってハッとする。
最近感じた楽しいことや知らせたいこと、手紙を通して繋がっている感謝の気持ちなどを自然にのびのび伝える心持ちでいられたらと思う。






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