見出し画像

道徳は何のためにあるのか:不作為バイアスと共通知識

有名人の不倫がよく話題になります。例えば不倫をした芸能人は、けしからんと言って責められたり、出演がキャンセルになったりしますよね。あれはなぜなのでしょうか?たしかに不倫は道徳に反することですが、犯罪ではありません。また多くの人は当の本人には会ったこともないわけですし、それで自分が何か被害を受けたわけでもありません。それなのになぜ責めるのでしょう?そうやって他人を叩くのが気持ちいいからだ、という人もいるかもしれませんが、ではなぜ気持ちいいと思うのでしょうか?
 不倫以外にも、私たちは非道徳的行為を見かけると、たとえ自分がその行為の被害者でなくとも非難します。このような道徳的非難が行われる理由について、ピーター・デシオリらが興味深い仮説を提唱しています(1-2)。簡単に言ってしまうと、道徳的非難は当事者以外である第三者の行動を一致させるためにあるのだ、ということです。かれらはこれをDynamic Coordination Theory(DCT)と名付けています。
 集団内で争いが起こったとき、集団のメンバーがばらばらに対立しているとコストが大きいですよね。しかし、そこでどちらの側につくか一致させることができれば、無駄な争いは避けられます。これはゲーム理論において「コーディネーション問題」と呼ばれているもので、例えば自動車がどちらの車線を走るのか、ということを考えてみるといいでしょう。日本では車は左側を走りますが、そのような取り決めが無ければ、みんなが好き勝手に右側や左側を走ることになります。当然事故は増え、大混乱になりますよね。しかし、そこで「車は左」という取り決めがあれば、無駄な事故を防ぐことができます。どのようにしてこの「車は左」というルールを決め、みんなが守るようにするのか、というのがコーディネーション問題です。デシオリらは、道徳的非難にはコーディネーション問題を解決するという機能があるのではないか、と考えたわけです。例えば不倫の場合、自分には直接関係なくても、それを非難することによって「自分は不倫をしない側に立っているのだ」ということをアピールしているということですね。
 デシオリらは、このDCTによって「不作為バイアス」を説明できるのではないかと考えました(3)。不作為バイアスとは人間がもっている様々な認知バイアスのひとつで、何かアクションを起こして失敗するよりも、何もせずに同じ失敗をする方がマシ、と考えてしまうことです。これは他人の行為の評価についてもいえます。同じ失敗なら、何かアクションを起こした場合よりも、起こさない場合の方が非難されにくい、という傾向があることが分かっています。デシオリらは、ヒンズー教徒が、牛を殺すよりは放置して餓死させるほうがより悪くない、と考えていることを例に挙げています。そうやって不要になった牛を殺さないので、インドには多くの野良牛がいるのだというわけです。なぜ、人々は不作為な失敗の方をより非難しないのでしょうか?
 それは、不作為な失敗の方が道徳違反の公的な証拠が少ないからだ、というのが、デシオリらの考えです。DCTによると、道徳的非難は第三者を一致させるためにあります。そのためには、第三者のあいだに「共通知識(common knowledge)」が必要だろう、というわけです(4)。この場合、行為者が道徳的違反をしたことが第三者に分かる証拠が、共通知識になります。つまり、何かアクションを起こした結果失敗したとすると、そのアクションが公的な証拠になるが、何もしなければみんなに分かるような証拠が無いよね、だから責められないよね、ということですね。
 デシオリらは、これを調査によって確かめました。ある人が道徳違反をしたという架空のシナリオを読んでもらい、どれくらい非難されるべきか、というのを回答してもらったのです。こういう方法を「場面想定法」といいます。いくつかの場面によって検証しているのですが、そのうちのひとつを紹介しましょう。
 ある駅に管制室があり、そこではボタンによって線路のポイントが操作できます。1番目のボタンには「側線A」と表示されています。このボタンを押すと、列車は進路を側線Aに切り替えます。2番目のボタンには「側線B」と表示されています。このボタンを押すと、列車は進路を側線Bにポイントを切り替えます。3番目のボタンには「ルートを維持」と表示されています。このボタンを押しても列車にはまったく影響はありません。そしてここが大事なのですが、ボタンが押されると、コンピュータシステムがその決定を記録し、それに応じてシステム情報を更新します。シナリオでは、管制室にいる人が暴走する列車を目撃するのですが、本線に人がいて、そのままだと轢かれてしまうという状況が想定されています。ある条件では、管制室の人は列車が側線Aに進めば、本線上の人を避けて通ることができることが分かっているにもかかわらず、「側線A」のボタンを押さず、本線上の人は列車に轢き殺されてしまいます。もうひとつの条件では、管制室の人は「ルートを維持」ボタンを押し、やはり本線上の人は列車に轢き殺されてしまいます。
 つまり、何もしなかった結果として人が死んでしまう状況と、やはり何もせず人が死ぬのですが、その何もしない、ということを表明し、それが記録される状況とを比較するわけです。アメリカの大学生に、管制室の人がどれくらい非難されるべきか評価してもらうと、「ルートを維持」ボタンを押した人の方がより強く非難されました。つまり、たとえ何もしなくても、それが表明されていて、第三者にとっての共通知識となっていれば、不作為バイアスが働かなくなるということです。
 この研究では、人が死ぬかどうかという極端な選択を扱っています。また、対象となったのは主に英語圏の人たちです。他の状況で、社会文化的背景が異なる人々について同じ結果が得られるでしょうか?そこで、日本人を対象に、死後の臓器提供の意思表明について調べてみました(5)。
 臓器提供の意思表明には、基本は提供しないのだけど、提供したい人がそれを表明する「オプトイン型」と、基本は提供することになっていて、提供したくない人が表明する「オプトアウト型」があります。日本はオプトイン型ですよね。運転免許証や健康保険証に、提供したいかしたくないか、という意思表明ができるようになっています。臓器提供は道徳的な行為と考えられるので、この「提供したくない」という意思表明が、デシオリらの研究における「ルートを維持」ボタンを押すことに相当するのでは、と考えました。別に表明しなくても基本的に提供はされないわけですからね(ただし、本人の意思不明の場合には家族の承諾によって提供はできます)。デシオリらの研究と異なるのは、臓器提供をする意思があり、さらにそれを表明するという道徳的に賞賛されるような選択肢があることです。
 この研究でも、場面想定法を用いました。場面想定法はあくまで想定でしかなく、現実を反映していないということで批判もされています。しかし、道徳違反のような、現実では倫理的な問題もあってなかなか調べることが難しいテーマについては、それなりに有効な方法なのではないかと思います。
 20代から40代までの日本人参加者377人に、まず日本における臓器提供の法律について説明し、4つの条件に対応したシナリオのどれかひとつを読んでもらいました。どれもある人物が、免許更新の際に臓器提供についての選択肢を目にするという設定です。「提供の意思あり/表明あり」条件では、臓器を提供したいという人が、提供します、という選択肢を選びます。「提供の意思あり/表明なし」条件では、臓器を提供したいとは思っているのですが、どの選択肢も選びません。「提供の意思なし/表明あり」条件では、臓器を提供したいとは思わない人が、提供しません、という選択肢を選びます。「提供の意思なし/表明なし」条件では、臓器を提供したいとは思わず、どの選択肢も選びません。参加者には、それぞれの人物の選択について、どれくらい正しいと思うのかを、「まったく正しくない」(-4)から「どちらでもない」(0)、そして「きわめて正しい」(4)までの9段階で評価してもらいました。
 結果は意外なものでした。まず、どの条件でも、正しさの平均値は正の値でした。臓器提供をしたいと思わない、というのはもう少し道徳的に非難されるかと考えていたのですが、そうでもないようです。そもそも、日本は先進国のなかでも臓器移植の件数が最も低い部類に入るそうです。誰しも事故や病気で他人から臓器を提供してもらう可能性はあるわけですが、とはいえ臓器提供をしたくないと考えることは、日本ではあまりズルいこととはみなされていないようですね。
 「提供の意思あり/表明あり」条件において正しさの得点が最も高かったのは予想できることですが、意外だったのが、次に得点が高かったのが「提供の意思なし/表明あり」条件だったことです。さらに、このふたつの条件における得点には統計的に意味のある差はありませんでした。3番目に高かったのが「提供の意思あり/表明なし」条件で、4番目が「提供の意思なし/表明なし」条件でした(図1)。「表明あり」の2条件と、「表明なし」の2条件とのあいだには、統計的に意味のある差がみられました。つまり、実際に臓器提供の意思があるかどうかということはあまり問題ではなく、意思の有無にかかわらずそれが表明されているかどうか、ということの方が、道徳的な正しさの判断に影響していたということになります。

図1 4つのシナリオの人物に対する評定(Oda, 2022のFig.1を改変)

 今回の研究では「非難」について調べることはできませんでしたが、臓器提供のように不作為が基本の状態で、それが深刻な結果をもたらさないような場合には、公的な証拠を残すこと自体が道徳的に正しいと判断されるということが示されました。どちらの側につくか、というときに共通知識が果たす役割は、道徳的非難に限らないということでしょう。

文献
1)DeScioli, P., & Kurzban, R. (2009). Mysteries of morality. Cognition, 112(2), 281–299.
2) DeScioli, P., & Kurzban, R. (2013). A solution to the mysteries of morality. Psychological Bulletin, 139(2), 477–496.
3) DeScioli, P., Bruening, R., & Kurzban, R. (2011). The omission effect in moral cognition: Toward a functional explanation. Evolution and Human Behavior, 32(3), 204–215.
4) Freitas, J. D., Thomas, K., DeScioli, P., & Pinker, S. (2019). Common knowledge, coordination, and strategic mentalizing in human social life. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 116(28), 13751–13758.
5) Oda, R. (2022). Leaving public evidence is morally right: The case of organ donation in Japan. Letters on Evolutionary Behavioral Science, 13, 45-49.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?