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頭がぶっ壊れている

「頭がぶっ壊れている」

 最近、どういうわけだかこの言葉が頭に浮かぶ。
 文章にするとヒヤヒヤする症状だが、幸いにも発作などは起きていないので、特段何か問題があるわけでもなかろう。

 どういう時に浮かぶかというと、誰かの思考に触れる時、端的に言えば、性癖含めた自身の価値観的な側面について話す時などである。

 例えば人と話している際、うん?となる場面がしばしばある。
 今に始まったことではないが、自分の思想と照らし合わせて、それはおかしいだろう、と思うことがある。個人的に、元来変わり者であるから、こういう経験が人以上に多いだろうと思っている。
 そのモヤっとした疑念が、気が付くとある納得へと納まる。
「俺は頭がぶっ壊れている」
 昔に比べ、そういう発想に収縮するのが頻繁に起こるようになったと思う。

 ぶっ壊れている、という表現が厳密に言って正しいかどうかはさておき、もうどうしようもない、ということ。つまりどうしてこの言葉が浮かびがちになったかというと、それはそうしたある種の諦めだとか自嘲が脳内に蔓延しつつある、ということである。
 自分と違う人間を見ても「あいつは狂っている」とは思わず、「狂っているのは俺だ」という考え方、それが主流になりつつあるわけだ。

 どうしてそうなったか、と考えれば漠然と理解できるような気がする。
 原因というのは様々あって、SM含めた新しい環境で誰かの思想に触れる母数も、中身の差異も、ぐっと増えたというのはあるだろうし、あとは就活。いわゆる自分探し的な作業で、過去の記憶に思いを巡らせると、ああ俺はどうしようもないな、という感想に落ち着くというのがしょっちゅうあった。

 SMだとか変態だとか、そんなちょっと変わった環境においても、やはりマイノリティの部分をそこそこ抱えていることがわかってしまったものだから、そうした考えに至るのも無理はないだろうと思っていただきたい。
(もちろん、そうしたマイノリティな部分を突き放す人なんていないし、理解を示してくれているのだが)

 ぶっ壊れている以上、それに手を挙げて放っておくのも良い選択肢だろうが、ぶっ壊れたもんが人様に迷惑をかけるようなら、所有者として矯正せざるは得ないだろう。そこについては粛々と努力と工夫をこなしていくべきだ。
 自分の変わったとこを治さない、個性として胸を張る!というのはどうにも苦手で慣れない感じで、やはりそれなりに諸々を無難にこなしたいという性が顕著にでるからこそだと思う。

 ともあれ「頭がぶっ壊れている」という開き直りも、周囲とのギャップの正当化、その第一の根拠になっているから、その言葉に少し救われていたりする。

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