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5-2.モリソン号事件その2

オリファント商会(アメリカ)

同じ頃、アメリカニューヨークにある会社「オリファント商会」の経営者がマカオに入ってきます。同社はマニラに支店をもち、聖書の翻訳作業を支援していました。同社は日本にも興味があり、同社は同社で、マニラから連れてきていた4人の日本人漂流民を日本に送還することによって、日本との通商を開こうと考えていました(ハドソンベイ・カンパニーと同様)。そうして、オリファント商会の仕立てたアメリカ船モリソン号が、7名の日本人漂流者を乗せて日本にやってくることになったのです。

実はアメリカ船だった

日本への向かう航路では、海賊の襲撃を心配する必要がなかったため、あえて船から大砲を下ろして完全な非武装として仕立てられました。オランダ風説書が伝えたイギリス船は誤りでアメリカ船だったのです。しかし、イギリス船だと認識したままだった幕府内では反英意識がいすわることになりました。幕府が望まないにせよ、イギリス、そして新興国アメリカにとっても、日本は新たな市場としての位置付けから逃れることはできませんでした。

江戸の脆弱さ

さて、モリソン号が江戸に近い浦賀に現れたことにより、幕府は江戸の海の守りの強化を図ろうとします。砲台の数も少ない上に兵力も少ないため、譜代の大名を移封させる、大身の旗本を土着させるなどの意見書が幕府に出されますが、これには猛烈な反対意見もだされ、結局は具体的な警備強化の実現はできませんでした。反対意見の急先鋒は勘定方(幕府の財政担当部署)から出されているので、「そんなお金はない」がその理由です。

そもそも、警備強化案にしても、当時の幕府の持つ大砲の射程(2〜2.5キロメートル)では、最短部でも約7キロメートルの浦賀水道(房総半島富津岬と三浦半島観音崎間)の中央を航行する船には届かないのです。何よりも、当時100万人規模の一大消費地であった江戸を支える物流は、主に江戸湾が支えていました。つまり、江戸を海上封鎖されてしまえば、戦う前に干上がってしまうしかないのです。幕府もその脆弱性は十分に認識していました。

江川英龍ひでたつの海防強化案

幕府の命を受けて、海防強化案を作成したのが伊豆韮山の代官であった江川英龍です。彼は日本初の西洋反射炉を作った人物としても知られていますが、異国船を打ち払う大砲の製造に必要な「鉄」を作る必要性を認識していたからです。彼は、長崎で高島秋帆しゅうはん(後述)から西洋砲術を学んだ人間でした(タイトル画像)。

軍事力の低下

信長、秀吉、家康の頃は、ヨーロッパ諸国に引けを取らなかった軍事力も、この頃には相対的にみてかなり貧弱なものとなっていました。国内での戦乱は、島原の乱(1637年)以降途絶え、対外的にも海という自然の要害に囲まれていた日本とくらべて、常に戦争に明け暮れていたヨーロッパ諸国。軍事力の伸長に大きな差がつくのも当然のことといえます。

続く

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