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1-4.石見銀山

タイトル画像は、16世紀末にヨーロッパ人が作成した日本の地図。そこには「Iwami」と出ています。2007年に世界遺産に登録された「石見銀山」ですが、わたしは歴史の授業で習った記憶がないのです。単に忘れているだけなのかとも思いましたが、amazonで高評価の「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書/山﨑圭一」にも出てきていないので、日本史で教えるべき事柄にはなっていないのでしょう。同じく山﨑圭一氏による「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書」にも出ていないのです。日本史、世界史で日本人が教わらないそれが、世界遺産に登録されていることを非常に奇異に感じます。詳細は後述しますが、16〜17世紀の一時期、世界の生産量の三分の一を日本が担い、その大半を石見銀山が占めたと言われているのです(出所:「金・銀・銅の日本史/村上隆」P122)。
 
「かつてそこで生み出された良質で大量の銀は、世界経済を動かし、欧州の人々は銀鉱山の王国と地図に記した」(石見銀山世界遺産センターweb/(https://ginzan.city.oda.lg.jp/

「海禁」「朝貢」

そのころ、中国大陸は「明(みん)」王朝の時代でした。明王朝は、外交と貿易を一元的に統制、管理していました。これはのちに「海禁」「朝貢」と呼ばれているシステムです。それが、16世紀中頃には、その統制にほころびが目立つようになり、沿岸域で密貿易が横行するようになります。その密貿易をおこなう武装した商人たちが、前述したように「倭寇」とよばれたのです。実は、「倭寇」と名付けられた集団は、13〜14世紀にも存在していました。「前期倭寇」とよばれています。この時の倭寇は、日本人が主体で、一部に高麗人(朝鮮半島人)が含まれていました。明王朝は、その内実が変わっていることを知りながら、新たに生まれたその集団に、かつての「倭寇」と名付けたのです。彼らは「倭」だから取締まれないという言い訳にしたとも考えられます。

ちょうど日本は戦国時代の只中であり、九州を拠点とする大名や、その支援を受けた商人たちが九州、沖縄、中国沿海地方をテリトリーとして盛んに密貿易をしていました。この頃の日本人商人たちは、現在のタイ、ベトナム、フィリピンにまで進出し、商売上の拠点を気づいていました。そこには「日本人町」が形成されていったのです。その彼らの大きな商売上の武器が「銀」だったのです。

倭寇と一緒になるポルトガル人

この「銀」により、日本の商人だけでなく、中国の商人(倭寇)の動きまでもが活発になり、そこにポルトガル人が参入してくることになったのです。1543年は、おそらく王直が新たな商品(この場合は鉄砲)を直接、または仲介役として、日本に売り込むためにポルトガル人を乗せていたのではないでしょうか。

なぜ、ポルトガル人がそこにいた?

しかし、なぜポルトガル人は、その頃中国の商人と一緒になっていたのでしょう。いつから、どうやって来ていたのでしょうか。その理由を探るには、それよりさらに130年をさかのぼらなければなりません。

続く

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