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4-2.余話として(東シナ海)

視認できない目的地への航海

古来、遣隋使や遣唐使が渡った海は東シナ海でした。長崎にやってきたポルトガル船、オランダ船も東シナ海を渡ってやってきました。

遣隋・遣唐使船は、長崎五島列島や佐賀の東松浦半島から出港し、目指した先は浙江せっこう省の杭州湾沖にある舟山群島。その距離は約600kmあります。朝鮮半島西岸の海域(黄海)は、浅瀬が多く、岩礁も多かったため、大型船の航行には不向きでした。東シナ海は黄海などと比べて波は荒いのですが、水深は深かったため大型船の航行は可能でした。したがって、東シナ海をわたる以外になかったのです。航海技術の未熟なその時代には、視認できない目的へ向けた航海は、まさに命懸けでした。だから国家的な大事業として船を仕立てたのです。

現代の中華人民共和国の首都は「北京」は、モンゴル人が建てた「元」の時に初めて首都となり、次の「明」も「清」も首都として機能させましたが、随、唐の時代には、ともに「長安ちょうあん」(現在陝西省西安市せんせいしょうせいあんし)です。日本でいえば京都のように、1000年以上に渡り国の中心。唐の時代の長安は、間違いなく世界第一の「花の都」でした。まだヨーロッパで羊皮に文字を書いていた頃、長安では貸本屋が繁盛していたのですから。ちなみに、「隋」も「唐」も「漢民族」の建てた王朝ではありません。「鮮卑拓跋|《せんぴたくばつ》」とよばれる中国北方の集団(最近の研究では民族ともよばれないらしい)が建てた王朝です。

杭州湾から、長安まではGoogle map によるとその距離は約1,600Kmあります。東京〜鹿児島間が約1,200Kmですので、東京から沖縄くらいの距離感でしょうか。

中国大陸での滞在期間

一度大陸へ渡った人間(当時は圧倒的に僧が多かった)は、約20年間大陸で過ごさなければ、帰国の手段がありませんでした。日本からの派遣船は約20年間隔だったからです。外交使節としての遣唐使は1年程度で帰国の船に乗りましたが、留学僧たちは、次の派遣船がくるまでは帰れなかったのです。唐にわたった僧たちは、自らの人生のすべてをかけたといっても過言ではありません。

有名な阿倍仲麻呂は717年、20才の時に入唐、帰国の予定は次の派遣船がくる734年でしたが、時の玄宗皇帝から帰国の許可を得られずにそのままとどまりました。次の帰国の機会は753年の派遣船への乗船です。乗船でき、帰国の途についたものの、途中漂流して安南(ベトナム)へ流れ付き、そこから長安へ戻って一生を終えています。72才でした。

894はくしに戻そう遣唐使

この語呂合わせ、日本史で必ず習ったはずです。わたしは「日本史」ではなく小学校の「社会科」で習った記憶があります。そして、同時に「以後国風文化が展開された」と習いました。今でも「一度読んだら絶対忘れない日本史/山﨑圭一」にそのように記載されています(P91)。これは本当なのでしょうか。

894年に遣唐使の派遣は確かに中止されましたが、その前の派遣は838年、即ち半世紀以上にわたって派遣はなかったのです。その前は804年ですから、34年も派遣はありませんでした。もう「学ぶ」ものや大陸から持ち帰るものは無くなったからでしょうか。

入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき

上記を著した円仁えんにん(第3代天台座主、慈覚大師)は、結果的に最後(838年)となった遣唐使船で唐に渡りました。44歳のときです。20年間隔が守られているとして、帰国できるのは64歳、当時の平均寿命からいって、生きて帰国できる可能性は極めて低いといわざるを得ません。円仁は、「たとえ帰国できなくとも聖地で死ねれば本望」だと考えて渡航したのでしょうか。

海商による東シナ海ルートの確立と大陸へ殺到する僧たち

実はそうではなく、遣唐使船を使わなくとも帰国できる手段を知っていたのです。実際、円仁は847年に帰国しています。その手段は、朝鮮半島(新羅人)の海商が確立させた航海ルートによる貿易船でした。9世紀になると、彼らは、日常的な商売ルートとして東シナ海を利用し出していたのです。したがって、国家的な一大プロジェクトとして、遣唐使船を派遣する必要などなくなったのです。

遣唐使廃止について、「僧侶と海商たちの東シナ海/榎本渉」にはこうあります。

「海商が現れて遣唐使が不要になったのであって、海商の出現の重要性に比べれば、894年の遣唐使廃止計画などは、その状況下で見られた1エピソードに過ぎない。ましてや小学校で年号を暗記するほどの大事件などではない」(「僧侶と海商たちの東シナ海/榎本渉/講談社学術文庫」P22)

唐は907年に滅亡しますが、その後960年からの「宋」王朝の時代になると、日本から大陸へ渡る僧は殺到、それはその後の「元」の時代になっても変わりませんでした。かつては、命懸けだった東シナ海の航海も、その航海リスクは格段に下がり、やや大仰にいえば、特別視されない旅程のひとつになったからともいえます。

遣唐使廃止によって「国風文化が展開された」というのも、正しくないように思います。

※入唐求法巡礼行記

これは、アメリカ駐日大使だったE・ライシャワー氏が英訳して紹介され、各国語に翻訳されて世界に知られることとなりました(1955年)。

続く


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