術と癖

このあいだのイベント(組織の他者といかに出会うか:批評から創造を生むファシリテーションの術)から考えたことの覚え書き。
 
アートとは術(すべ)、つまり何らかの「見方」や「考え方」や「やり方」といった方法のことである。イベントでは、いったん素朴にそう考えてみて、他者との関わりからお互いの特異な術を発見していきませんか、と提案したのだった。
 
その際、ホストの臼井さんとのディスカッションのなかで、術の萌芽としての「癖」というアイデアが出てきたのが、とても面白かった。高度に洗練された術が結晶化したものが、ある種の芸術作品なのだ(あるいは組織における創造的なコミュニケーションの達成なのだ)、というのはまあ良いとして、教育や学習の観点からすれば、まずは「どうやって術を獲得しうるのか」というプロセスが問題になってくる。つまり術の手前にある何か、術に成りそうで成っていない未然の状態を探る必要がある。
 
それは「癖」ではないか。
 
臼井さんによるこの指摘には蒙を啓かれた。術を自覚的に体系化していくためには、すでに自身のなかにある行動や思考の型、パターンを発見することが重要なのだと理解はしていたつもりであったが、それを「癖」と言い換えることで、日常的かつ身体的なルーティンをより適切な解像度で振り返ることができそうだ。
 
何となくいつもそうしていること、口癖や手癖、ジェスチャー、マイルール。その意味や価値を極端に解釈してみたり、あえて大袈裟に抽象化してみたりすること。たとえば文章の改行のタイミングに独特のこだわり(癖)があるとして、それは情報の量と質を構造的に操作する「術」の端緒となりうる。改行? それが何だ? と思われるかもしれないが、一度に140文字しか書けない、強制的に改行させられるプラットフォームによって、社会は一変してしまったとも言えるのではないか。いずれにせよ、癖から術へ、というアクセスは有効な理路であるように思われる。
 
さて、ここまではイベントの振り返りであるが、もうひとひねり、議論を展開しておきたい。
 
冒頭であっさりと「他者との関わりからお互いの特異な術を発見」するのだと書いたわけだが、この他者性の扱いがまたややこしい。癖というものは、自分でもよく理由は分からないが反復してしまう、いわば自分の中にある「プチ他者」のようなものであり、経験的に考えても、癖は自分以外の他者によって気付かされる(〇〇さんってよく〇〇しますよね)ことが多いのではないだろうか。いくらか飛躍的に断言してしまうと、ここからは以下のような帰結が得られるかもしれない。
 
術は他者によって齎されるほかない。
 
だとすれば、術は「自分の思った通りにはならない」ということ? である。ここにややこしさがある。術は、ある一面では意図的に操作可能な技法でありながら、他面では自らの意志を超えている。これは、どういうことだろうか。
 
イベントのなかでは、まさに「他者」をひとつのキーワードとして、議論があったわけだが、この他者と術の関係性についてはまだまだ汲み尽くせていない(というか、「他者」概念についてくる無限のコノテーションを考えると、汲み尽くせるはずもないといえばない)。イベントの感想戦のようなラジオ収録があるとのことで、そこでまた検討を続けてみたい。
 


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