対向車線としての【地域】

前回に少し触れた、とあるプロジェクトでの「インタビュー」は無事終了した。年内にはウェブサイトで公開されるとのことで、後日またリンクを貼っておきたい。インタビューの内容は多岐にわたったが(2時間半くらい喋ったかも)、大きなキーワードとしては【地域】そして【鑑賞】の2つがあった。その場で色々と思いついたことを、忘れないうちに2つの記事に分けてメモしておく。

まずは【地域】について。地域芸術祭、地域アート、地域共創……等々、2000年代以降の日本の美術界において「地域」の語は、ある種のマジックワードとして用いられてきたといえる。今回のインタビューのなかでも、あらためて「地域」の意味合いをどう捉えるか、という話になったわけだが、なかなか展開が難しい部分があった。というのも、これに関する「教科書的な回答」は大体もう決まっているからである。たとえば、「現代美術における地域」というお題の記述式の試験があれば、おおむね以下のように答えることになるだろう。

地域アートプロジェクトは、その土地に固有の風土・文化・歴史・文脈をふまえ、それを外部から一方的に搾取したり侵害したりするのでなく、当事者と共同的に地域の意味や価値を再構築していくことが重要である。

うん、それはそうかもしれんが、ほんで? という感じで、じゃあそれを現実の「地域」で、どう具現化していくのよ、ということが次なる課題になってくる。そこから先は個別具体的な対応やアクションが求められ、一般論的には「丁寧に対話を続けましょう」くらいのことしか言えない。いささか露悪的に言えば、個々の実践事例には多彩なヴァリエ-ションがあって「面白い」のだが、議論のフレームワーク自体は予定調和で「面白くない」のである。そんなわけで、模範回答の行き止まりを迂回するような別解、「地域」という語の風通しを良くするような他の補助線が引けないか、と頭をひねってみた。そこでポッと出てきたのが「対向車線」というワードである。

対向車線。自車とは逆向きに走行する隣り合う車線のこと、なのだが、不思議なことに対向車線には実体があると同時にない。なぜならば、対向車線は目の前に「ある」のだが、もしも自車が向こう側の車線に移動したならば、たちどころにそこは対向車線では「なくなる」からだ。要は「左右」と似たような、相対的な位置関係の概念であるということだ。

地域とは対向車線のようなものである。仮にそう言ってみる。すると、どういうことが考えられるか。大阪に住む私からすれば、「鳥取」は空間的に隔たった地域(対向車線)であるが、鳥取に住む誰かからすれば「大阪」もまた同様に地域(対向車線)である。このように、中心/辺縁という非対称的な感覚をいったんわきにおいて、地域間の立場と視点を互換的に考えることができるようになるかもしれない。

また、移住のようなシチュエーションを対向車線概念から考察すると、あそこで暮らしたい! と思って移り住んだとしても、そこはもう以前に思っていた地域(対向車線)ではなくなっている、ということが言える。これはしかし、地域に対する外部からのまなざし・あこがれ・思い込みを、単に批判的に退けるものではない。むしろ「オリエンタリズム的な効果は、わりとマテリアルな位置関係によって分析・操作可能なのでは?」という別ルートの開拓を予感させるものだろう。

などなど、地域を考察する比喩としては、それなりの使い勝手がありそうだ。ただし注意すべき点もある。対向車線概念は、地域性を何でもかんでも相対化してフラットにしてしまうものではない、ということだ。一方では、動かしがたい、積み重なった地層のような地域性(物理的な存在としての車線)は確かにある。そこを見誤ると、無粋な余所者でしかなくなってしまうだろう。他方で、捉えがたい、ゆらめく蜃気楼のような地域性(位置的な効果としての対向)もある。というか、あると感じてしまう事態が確かにある。この両者を並存させつつ思考することが対向車線概念のキモである。

と、いま書いていて思ったが、動かざる土地(=地域)の比喩として、移動するための車線を挙げているのは、なんとも奇妙かもしれない。では、対向車線としての地域では、何が流れているというのか。

そこではおそらく「時間」が流れている。

この「時間」というキーワードは、次の記事で扱う【鑑賞】に関する考察との蝶番になっている。2つの記事を併せて相補的に、それこそ対向車線的に考えてみよう。



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