キャンパス陰影礼讃(大学とはどういう場所であったか?)

この4月から大学が異動になった。

新しい環境に身体が馴染むのには、時間がかかる。何とか自転車操業でやりくりし、ようやく連休にたどり着けそうである。noteを書いている場合ではないような気がするが、書くことがある種の「息継ぎ」にもなるかな……と、ポチポチこの記事を書いている。

現時点での第一印象なのだが、居心地の良い大学である。それだけ言うと、やたら偉そうな放言になってしまうのでアレだが、素朴な直感として「なんか居心地が良い」のである。心なしか学生も教職員ものびのびしている気がする。いったいなぜだろうか。

語弊を恐れずに言えば、ツルツルピカピカの真新しいキャンパスというわけではないし、著名な建築家の手になる校舎が遺っているわけでもない。ただ、そこそこ古いものと、それなりに新しいもの、それぞれが入り交じって、キャンパスのそこかしこに綾というか何というか……「陰影」のような印象が感じられるのだ。空間と時間のあちこちに一息つけそうな木陰がある、そんな感覚。

厳しい時代を迎えている大学業界においては、大規模校志向の受験生にアピールする「大きくてきれいなキャンパス」は死活的に重要なテーマであり、「学部学科新設→キャンパス拡充のサイクルを回し、シュリンクに備えて可能な限りのスケールメリットを獲っておく」のが、ある種の経営的常道となっている。そのこと自体を批判したいわけではないが、それとは異なるキャンパスの(ひいては大学の)在り方が思い描けなくなるのはまずいだろう。

学生がたまっている謎のサークルの部室があったり、整理が追いついてない古本屋みたいになっている研究室があったり、使っているんだかいないんだか分からない年季の入った校舎があったり、7回生くらいの「ぬし」みたいな先輩がいたり……懐古趣味的に思われるかもしれないが、大学というのは様々な「暗がり」=「よくわからない空間と時間」を内包する場所であったと思う。

もう少し穏当な感じに抽象化すれば、多様な他者を受け容れ、思いもよらない出会いを結び、時間をかけて学びを発酵させる場所が大学であった、とも言えるだろう。そして案外、そういう「よくわからんが何か面白いことが起こりそうな場所」を潜在的に求めている学生は多いんじゃないか、とも思う。というか、そうであってほしいと願っている。そんな場所を、スケール競争とも、昔語りとも異なったかたちで、あたらしく耕すことはできないだろうか。

春うらら、キャンパスの陰影を礼賛すなり。木陰に臥す者は枝を手折らず、だったっけ。そんなよしなしごとを呟きながら、研究室のドアを半開きにして空気を入れ換える。

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