抽象的なメモランダム#5

ファミレスのサラダについての覚書

たとえば、ファミレスのサラダのドレッシングが大雑把にかけられており、下部はほとんど単なる生野菜になっていたとして、そこではサラダの味わいをよくするという本来の目的が、ドレッシングをかけさえすればよい、という手段の目的化によって転倒させられているわけであって、それを素朴に批判することもできる。

しかし、この微視的な批判意識は容易にエスカレートしがちであり、その行き着く先が無際限な完璧主義、であればまだしも、他責的もしくは自罰的な監視であるならば、生命力を減殺する抑圧として、あるいは破滅に向かう自己否定のトリガーとして、その批判自体が批判的に吟味されるべきだ、とも言うことができる。

ところで、この話の手前には、そもそもドレッシングの不作為に気づくか否か、という論点b(観察の精度)が別にあるのだが、論点a(批判の適否)と一緒くたに圧縮して言ってしまうならば、プロフェッショナルな仕事をするうえで不可欠なのは、気づいた上で批判意識をオフにすること「も」できる能力(高精度の適切なケアレスネス)である、と、これは断言したい。

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