開催のご案内と話題提供:「アイアイ」プロジェクト報告フォーラム×トットローグ-鳥取という“地方”で考える鑑賞教育-

以前にインタビュー(対話型鑑賞から関係の造形へ)を受けたプロジェクトから、総括的なフォーラムを行うとご一報いただいたので、ここでもご案内いたします。

残念ながら私自身は当日の参加が難しそうなので、欠席者からの話題提供として、少しだけメモ的に考察を記しておきたい。

今回のプロジェクトは、複数の研究者および実践者による、多様な意見・論点の「なまっぽい語り」が収められたことが、まず何よりの達成だったと思う。というのも、美術教育の実践や様態はそれこそ「なまもの」であり、それゆえに、つい10年~20年くらい前にどんなリアリティや空気感をもって事に当たっていたのかすら、本当に恐ろしいくらい忘れ去られてしまうからだ。

たとえば、今回「対話型鑑賞」がひとつのキーワードになっているが、その来歴の仔細についても、ざっくり言ってしまえば「もう、よくわからない」のだ。もちろん、体系的に確定可能な起源としては、VTC / VTSをひとつの源流と見定めるのがまっとうな筋であるのだが、類似した散発的な実践がそこかしこにあったこともまた事実であろう。日本での一例をあげると、京都市立芸術大学教授であった川村善之氏は『美術の鑑賞教育 理論と実践』(日本文教出版、1975)にて、以下のように述べている。

 そこで鑑賞の指導はいったいどうすればよいのか。ひとりひとり違った答えを出すのがよいのだから、まったく勝手気まま、ひとりよがりでよいのかというとそれはそうではない。よいものは必ず他の共感をよび起こすある種の普遍妥当性を含み、それは討論ではなく対話、話し合いのなかから浮かび上がってくるのである。教師はそういう有効な話し合いを準備するためにそのきっかけをつくらねばならないが、それが教師の鑑賞指導の重要な仕事の一つである会話のなかの設問、問いかけなのである。あくまで話し合いの姿勢のなかで、美術を見る眼を開かせていくような問いかけを用意すること、これは鑑賞教育の具体的な方法の第一歩なのである。

前掲書、pp103 - 104

ちなみに、この一文が収められている節のタイトルは「講話、設問、対話による鑑賞」である。一定の学的権威性を持った意見、主張として「対話による鑑賞」という文言が1975年時点で書かれていたことになる。ただ、それがどこまで美術教育関係者の間で認知され、どのような実践がどれくらいの広がりで行われていたのかは、もはや知る由がない(単発の実践例が「発掘」されることくらいはあるだろう)。現在には伝わっていない、残っていないんで、おそらくそんなにスケールはしなかったんでしょうね、ということで整理するほかないわけである。

まあ、このあたりは、基礎文献の存在自体がふわっとしている美術教育「学」としての脇の甘さも要因のひとつではあるのだが……いずれにせよ、論文や書籍とは異なった何らかの形でのアーカイヴの大切さは、重ねて強調したい。上記のケースであれば、当時の実情を語る声や授業資料が、数例でもアクセスが容易なかたちで保存されていれば、調査の可能性は大きく異なったはずだ。

たぶんこのことは、多くの関係者はよく分かっている。よく分かっているのであるが、「忙しくて手が回っていない」のが美術教育業界の現状だと思う。そんなわけで、今回のプロジェクトによる試みは、その悪循環にひとつの風穴を空けるものであったと言える(ぜひともインタビューを継続してほしい……)。

この論点を抽象化して換言すれば、「ワークショップのような不定形な活動をいかにアーカイヴすることができるか」という課題にもなるだろう。これは、モノのみならずヒトとコトにも照明を当てる「フォーラムとしての美術館」の構想・運営においても通底する問いになるはずだ。

……と、思いのほか長くなってしまったが、私自身としてもこれはつねに頭をひねっている問題であり、ぜひ他のみなさんの考えも聞かせていただきたい、というところがシンプルな本音である。今回の「フォーラム」の「アーカイヴ」が残るのであればぜひ視聴したい!

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