逸脱の術:矛盾形容語法としての「美術教育」

すっかりnoteの更新が滞ってしまっている。何かしら手を入れておかないと存在自体を忘れてしまいそうなので、2つのテキストをアーカイヴしておきたい。

ただ、ちょっと「在庫の品出し」みたいな感じで、「テキスト」としゃちほこばって言うほどのものでもなく、これまでの学会発表の際に、概要を整理して予稿集に掲載した文章である。具体的には、第41回美術科教育学会北海道大会(2019年3月)における「美術室で米を炊く:造形遊びから関係遊びへ」、 コロナ禍によって予稿集の発刊のみに終わった第42回美術科教育学会千葉大会(2020年3月)にて報告予定であった「逸脱の術:矛盾形容語法としての美術教育」、この2つの発表についての概説だ。

これらの文章で示されている実践やテーマは、少なくとも5~6年の蓄積が成されているのだが、いかんせん断片的にとっ散らかっていて、さすがにそろそろ筋を通してまとめたものを何とか書かないと……と思ってはいる。いや、思うだけでなく書いてもいるのだが……。というわけで、自分に発破をかける意味合いも含め、ここで公開しておきたい。

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1.逸脱は可能か?

本発表は、今大会のテーマ「逸脱の価値, 逸脱の方法」に呼応して企図されている。大会テーマに対し、筆者のこれまでの研究・実践から補助線を引くことで、逸脱の術(すべ = art )を描きだすひとつのきっかけとしたい。

そもそも「逸脱」とは、その「価値」とは何であろうか。逸脱とは「既存の枠内に留まらずにはみ出す」ことであり、それによって開かれる「創造的な可能性」がその価値であるとすれば、そこには奇妙な自己矛盾が生まれることになる。なぜならば、価値を判断する基準こそが「枠内」を画定するものであり、真なる逸脱とは、そのような既存の度量衡では計り知れない、価値がわからないものであるはずだからだ。その価値や是非を定位した刹那に(創造的な可能性を導く逸脱を容認した瞬間に)、逸脱は逸脱ではなくなる。逸脱とは、あくまで包摂の埒外に存するものである *1

にもかかわらず(あるいは、であるからこそ)、美術の歴史は「逸脱」による絶え間ない自己破壊と再構築の連鎖として紡がれてきた。特に、デュシャン以降の現代美術においては「内在的で純粋に美学的な価値判断がいかなる意味でも不在」であり *2 、現況は枠内も枠外も曖昧にとけあった混沌の様相を呈している。そこではもはや逸脱の舞台そのものが喪われつつあり、外部を求め続ける逸脱の術としての美術は、他領域と乱交的に関係していくなかで「社会的転回」に逢着する *3 。しかし、私たちが直面している社会、「他者とつきあうのは疲れた」と叫ぶポピュリズムによって友と敵が分断された社会、「強迫的な「正しさ」の緊張感を増大させる」エビデンシャリズムによって万事が形骸化した社会においては *4 、逃れ出るための余白は限りなく奪われているように思われる *5


2.美術教育は可能か?

アートワールドにおいては、逸脱の術は耐用年数の限界を迎え、他方で実社会においては、それは単に炎上と断絶を招くものとなりかねない。この文化的・社会的どん詰まりの状況下において、美術教育の担うべき役割は小さくないはずである。しかし、逸脱の術としての美術を、教育はいかに扱うことができるというのだろうか。教育とは、社会の構成員を再生産する営みであり *6 、その定義に従うならば、教育は社会からの逸脱を許容することはできない。つまり「美術教育」は、矛盾形容語法(「公然の秘密」のような矛盾表現)なのだといえる。私たちは逸脱(の術としての美術)を教育することなどできないのである *7

それでもなお、逸脱の術と教育との、あるいは美術と社会とのエンゲイジメントを図ることは、教育や社会の制度と組織が、そしてそこに関わる人間が、取り返しがつかないほど変容してしまうかもしれない、という「破壊的な創造性」を引き受けることに他ならない。そのリスクを無みにして、「安心安全な創造性」のみを上澄みとして掠めとることはできない。

誤解を避けるために注記しておけば、筆者は配慮の欠けた挑発的な表現をいたずらに肯定するものではない。私たちは社会の関係性のなかで生を営んでいる。それら全てが再創造の嵐に曝されることは、端的に破滅を意味するだろう。美術には事物を損ない他者を傷つける自由があるわけではない。しかし、にもかかわらず美術は破壊的な創造をもたらすことがありうる。この両義性を単に排除するのではなく、引き裂かれのなかで応答を試みること。それこそが、美術教育を可能ならしめる最低限の倫理ではないだろうか *8


3.逸脱の術とは何か?

さて、ここまでの前提を確認したうえで、ようやく「逸脱の術」の内実を問う準備が整えられたが、既に紙幅は尽きようとしている。急ぎ、核心を予告的に示すならば、「逸脱の術」とはつまるところ「他者と出会う術」であり、あるいは広義に解釈された「異化の術(デペイズマン)」であるといえるだろう *9

なぜ、そう考えられるのか。それは、具体的にどのような方略を指すのか。ここより先の議論は、学会発表の場での対話を待ちたい。



*1  共同体の内と外のダイナミズムと学びの様態については、以下の論考に依拠している。北野諒「ACOP-対話型鑑賞についての基礎的考察 共同体-外的学びへの試論」京都造形芸術大学紀要『GENESIS 第 16 号』所収、2012、pp190-201。
*2  ボリス・グロイス / 石田圭子・斎木克裕・三本松倫代・角尾宣信 訳『アート・パワー』現代企画室、2017、p25。
*3  ソーシャリー・エンゲイジド・アートなどの諸潮流を含意している。総論的なガイドとして、アート&ソサイエティ研究センターSEA 研究会 編『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』フィルムアート社、2018。
*4  ここでの社会認識は、以下の論考に拠っている。東浩紀『ゲンロン 0 観光客の哲学』ゲンロン、2017、p16。千葉雅也「アンチ・エビデンス 九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」『意味がない無意味』所収、河出書房新社、2018、p164。
*5  斯学に携わる私たちにとっては、先の学会通信の巻頭言で触れられている現状が、エビデンシャリズムの典型例として想起されるであろう。宇田秀士「中央省庁「教育政策」文言に踊ることなかれ!!「熟議」へ」『美術科教育学会通信 No.102』所収、2019、pp1-2。
*6  宮台真司による社会学の観点からの定義である。苅宿俊文・佐伯胖・高木光太郎 編『ワークショップと学び1 まなびを学ぶ』東京大学出版会、2012、p163。
*7  美術教育の不可能性を指摘する論者は少なくないが、斯学はどのような応答が可能だろうか。たとえば、椹木野衣『反アート入門』幻冬舎、2010。
*8  その応答の渦中から、美術や教育それ自体の概念、学習者のアイデンティティが変容することを、筆者は「半開きの対話」と呼称している。北野諒「半開きの対話 対話型鑑賞における美学的背景についての一考察」『美術
教育学 34 号』所収、2013、pp133-145。
*9  昨年度の本学会で筆者が発表した「関係遊び」の事例(産業廃棄物の鑑賞や美術室でのポットラックパーティーなど)も「逸脱の術」の観点から分析されうるだろう。北野諒「美術室で米を炊く 造形遊びから関係遊びへ」『第 41 回美術科教育学会北海道大会 研究発表概要集』所収、2019、p74。

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