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タダというコスト


「今なら無料」

「一つ買うと一つ無料」



こんな謳い文句につられたことはあるだろうか。

それが必要か不必要かを深く考えずに手に取ってしまったり、サービスを受けたことがある人は少なくないと思う。



違う目的で店に来たりしていたのに、いつの間にか無料というのにつられて本来の目的を見失う、まったく買うつもりのなかったものを買ってしまう。

マーケティングの策略にまんまとハマってしまうのだ。



必要のないものを抱えることでものが増えたり、無理して消費しようと普段の生活が崩れたり、対して興味のないサービスを受けて時間を無駄にしたりする。

決して珍しいことではない。



このような状況が発生すると、無料だと思っていたものは実は無料ではなく、知らぬ間に対価を支払っているということがあるかもしれない。


気を使っていたり、時間を無駄に使うことは実は自分にコストをかけていることになるのではないか。

(もちろん消耗品が一つ買ったら一つ無料とかになったらとても嬉しい、シャンプーなど)



次に、また別の視点からタダというコストについて考えてみる。



例えば、客を喜ばせるようなプラスアルファのサービスを無料で求めたとしよう。

人の善意でできるような簡単なものでも何でもいい。

そしてそれが当たり前のこととして定着したとしよう。



善意で行ったことであるし、結果として客が喜んだのならそれはいいことなのだろうか。



ここで自分が働く側に回った時のことを考える。


自分がサービスなり商品なりを提供する側に回った時、自分が前要求したことをタダでやらなければならなくなるのだ。

自分の時給は変わらないのにも関わらず、やることは増えてしまう。



そうやって自分の時給が上がらなければ、自分が客の立場としてさらに安くあるいは無料のサービスを求めるようになり…といった負のスパイラルに陥る可能性がある。



こういうと、自分はタダでもやりがいを感じるから負担にならないという人がいるかもしれない。

そうであるから自分は無料であってもかまわない。


ただ、全員が全員そういう人であるわけではなく、そういう気持ちでいられるなら、いいものには気持ちよく対価を支払いたいという気持ちにもなれるはずだ。



加えて、僕は、適正な値段設定ができない社会は発展しないと考える。

何をやってもどうせ追加で何ももらえないから現状維持でいいや、タダだから適当にやろう、といったような状況が起こる可能性が否定できないからだ。

共産主義社会の限界に少し似ている。



これこそまさにタダが引き起こしたコストだと思う。



自分が価値があると思うもの、あるいは自分がしてあげたいと思うことをしてくれた時、その対価を快く支払う精神こそがその対価以上の物を受け取ることに繋がるのではないか。




そうはタダが悪いというわけではない、何事も行き過ぎが良くないと思う。


タダにすることで価値あるものを知ってもらうきっかけになるだろう。



ただ、それにこだわりすぎたり、求めすぎたりすると、それは本当の意味でタダとは言えないのかもしれない。




<おまけ1>

無料つながりで一つ。

最近日本でレジ袋が有料になったみたいだが、正直意味がないと思う。

結局日本ではスーパーのレジ袋などはそのままゴミ袋として使う人が多いし、仮にレジ袋をもらわなくなったとしても、ゴミ袋を買うことになるはずなので大して意味はないのではないか。

またそもそもレジ袋はいろいろな努力のもとに作られた(環境的にも、どっかでそんな情報を目にした、あいまいです。)というのもあり、エコバッグのゴミも増えたら元も子もない。

コロナの状況もある。


オーストラリアはゴミ袋が有料だが、寮に住む前はゴミ袋を買っていたし本当に意味がないと実感していた。



<おまけ2>

カジノも再開しているのだけれども、ポーカールームは閉まっていて、できない。

いつ開くのだろうか。


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