「英語化は愚民化」著者 施光恒九大大学院准教授の「日本の真の独立とは」 第5講自己決定権とアイデンティティ

自己決定権とアイデンティティ 

沖縄の一部の団体で、「琉球人は先住民だから、自己決定権があるはず」と国連に直接訴える動きがあるようです。その先には、「沖縄の独立」が視野にあるのかもしれませんが、果たしてそれは本当に正しい選択なのでしょうか。

 ここでいう「自己決定権」という言葉は政治学では昔から使われてきた言葉で、「National self determination」(ナショナル・セルフ・デターミナション)の和訳でしょう。世界史の時間に習った言葉でいえば「民族自決権」です。第一次世界大戦後の国際連盟を作る時のスローガンになったものです。それが、「自決」という語感が物騒と敬遠されるのか、自決権が自己決定権に変えられるようになりました。自己決定権という語感が、民主的でスマートで、リベラルな響きが感じられるかもしれません。

しかし、和訳は変わろうとも中身は変わりません。沖縄のような分離独立論や自治権の拡大に関わるような問題に関して、自己決定権(自決権)をどう解釈すべきなのでしょうか。

 沖縄の一部の人たちが言っているのは、国政、首長選挙や住民投票で決まった決定を優先するのが、自己決定権の尊重だというのでしょうが、それはあまり説得力がないように思います。イギリスの政治哲学者のディビッド・ミラーの『ナショナリティについて』という本を、私は、他の研究者と一緒に翻訳したことがあります。ミラーは、「自己決定権をアイデンティティの問題だ」と指摘しています。自己決定権は、あるひと時の世論のあり方ではなく、もっと長期的な観点、つまり共通のアイデンティティから派生するものだと主張しています。今の一時的な考えより、民族、国家、集団なりのアイデンティティに依拠するものであり、アイデンティティとは、文化的・政治的属性だと、つまり「我々は何者であるか。どこから来て、どこへ行こうとしているのか」という問いの回答になるものと定義しています。

 政治学では、国民とは「現在の国民」だけではなく、過去、将来にわたる長い人々の連鎖の中で形成されてきて、また継承される集団と考えられます。政治的運命を共にしてきて、これからも共にしていきたいと考える集団です。一時期のうつろいやすい世論の決定ではなく、時間をかけて探求していくべきものなのです。沖縄もそうです。沖縄というネイションが、過去、現在を真剣に考え、将来を熟慮に基づき構想した末に、答えが出てくるべきでものなのです。過去の文化はどういうもので、将来どうすれば一体性と独立性を維持できるのかを真剣に考えた上で結論を出すべきです。

沖縄の人間ではない私の個人的意見を恐縮ながら言わせてもらえば、昔も今も沖縄との関わりが一番深いのはやはり日本でしょう。言語的にみても、沖縄の言葉は中国ではなく、日本本土の言葉にずっと近い。柳田国男は沖縄には古い日本語が残っていると指摘しているくらいです。柳田は沖縄が日本の祖先だと言っているのに対して、沖縄の思想家・伊波普猷(いはふゆう)は、逆に沖縄のほうが日本から強い影響を受けていると指摘しています。いずれにせよ、沖縄と日本は言語的にも文化的にも歴史的にも深い関わりがあります。沖縄の人々にもぜひその点は明確に認識していただきたいと思います。

 本土と言われる日本人も沖縄のことをもっと真剣に考える必要があります。そうすると、沖縄の人が受け入れるかどうかは別として、沖縄に対して主張する必要があるはずです。日本と沖縄のアイデンティティは非常に近いし、また、日本の独立にとって、沖縄の存在は大変重要だということです。日本政府はもっとそこを強調して発言すべきです。沖縄が中国の勢力下に置かれてしまえば、日本の独立はかなり危ういものになります。政府は、日本の独立にとっての沖縄の重要性を国民にもっと率直に語るべきです。

 琉球支配、琉球処分、沖縄戦など歴史的な問題を抱えていて、現在、本土の人間も、沖縄の人々も、率直にものを言いにくい雰囲気があります。国民としては非常に不健全な状態です。しかし、アイデンティティでは通低しているわけですから、真剣に考える時期ではないでしょうか。本土は「沖縄のために何ができるのか」、沖縄は「日本の一員として何ができるか」をお互いに真剣に考える雰囲気を作るべきです。本土と沖縄の一体感を阻んでいるものは、戦争観です。当時の沖縄の人々はあくまでも「日本のために」頑張ったのでしょうし、本土は、「沖縄を守るために」多くの兵を出し、最後には火中の栗を拾いに戦艦大和を出撃させた歴史があるのに、それが語り継がれていません。戦後、日本と沖縄の一体感が、歪んだ歴史観で急速に希薄化されてしまいました。その溝を埋める努力を互いに意識的にするべきでしょう。

沖縄戦では、「鉄の暴風」といわれるほど、米軍の艦砲射撃はすざまじいものでした。沿岸から、沖縄に向けて、無数の艦砲射撃を昼夜を問わず続けたのです。

 したがって、沖縄の人々は、沖縄戦ではずっと防空壕に入っていなければならない状態でした。ただ、わずかな間だけ、艦砲射撃がやむときがありました。それは、日本の特攻機が、米軍の艦隊に突っ込むときでした。そのときだけ、艦砲射撃は、特攻機に対する防戦に切り替わったからでした。沖縄の人々は、艦砲射撃が止んだ間に、防空壕を出てより奥地に逃れたり、移動したりしたそうです。その時に海の方に視線を向けると、日本の特攻機が米戦艦に突っ込んでいる姿がみえたといいます。沖縄の人々は、皆、特攻機の勇敢さに感謝しながら、走ったということです。こうした歴史には、沖縄と本土との間の絆がしっかりと感じられます。ただ、戦後は、そうした事実を語り継ぐことができていません。そこに、今の不幸があります。

 

現代日本人の傲慢さ

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