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共感は想像力で解決できない。という話

想像力(イマジネーション)でも、創造力(クリエイティビティ)でも、
共感はできない。というお話。

今回はいつもと書き方を変えてみている(本人しかわからないw)
いつもは徒然と書き殴っている。
今回は見出しを起こして、それから書いてみている。

共感できる≠共感される

自分自身が共感できる人間(だと思っている)でも、
共感してもらえるかは別だ。

できる(と思っている)人間はなぜあなたは共感してくれないと感じ、嘆き、妬み、嫉む。(あくまでもボクの話)
そんなヤツは共感されない。されるわけがない。

話を真面目に戻す。
自己のリテラシーと他者のリテラシーは異なる
だから、共感・共感力が大事なのだが、

まず、自己のリテラシーと他者のリテラシーは異なる
と言うことの理解がファーストステップ。

感受性が豊かだと共感しやすいのか

次に感受性について目を向けてみる。

1.人の気持ちを汲んで行動ができる
→共感に繋がりそう
2.日常の中で多くの感動を発見する
→△
3.芸術的センスに恵まれている
→?
4.深い愛情の持ち主
→共感に繋がりそう
5.周囲の環境に感化されやすい
→△
6.自分のわがままを貫き通すことができない
→△
7.感情の起伏が激しく、ストレスを溜める傾向がある
→△
8.繊細で傷つきやすい
→△
長所:誠実な気遣いさん
短所:鬱や不安症もありえる

結論。人それぞれ、人による。

エンパシーとシンパシー

empathy(共感、感情移入)

「哲学」や「心理学」、また自己の感情を表現する「美術学」の世界で用いられる言葉。

sympathy(同情、思いやり、共感)

「共感」という意味でポジティブなことに対してもネガティブなことに対しても使用している人が多いですが、本来の使い方は「ネガティブ」なことにのみ使います。

「共感が芽生える」「共感が湧く」というポジティブな状況においての熟語表現では「シンパシー」ではなく、むしろ「エンパシー」の方が適切

相手を気の毒に思う「同情」というニュアンスが「エンパシー」にはあまり含まれていない

同情と共感

同情とは、相手と同じ気持ちになるということです。
共感とは、相手の感情を理解するということです。
... 相手がつらいときに、一緒に落ち込んであげるのが同情
 一方、一緒に落ち込むことはせず
 冷静に相手の気持ちを理解してあげることが共感

また同情は一方的にも成立し、共感は双方向において成立します。
共感と勘違いをしながら同情をしていることが多いことでしょう。

同情から一歩踏み込み理解と言うアクションがとても大事になります。

想像力(イマジネーション)でも、創造力(クリエイティビティ)でも、共感はできない。

他者への想像力、他者への創造力でも、共感はできない。
(とボクは思うんだ)

イマジネーション
現実として認められなくて、感覚に存在しない何かの心像の形成
物や出来事の心的イメージを形成する能力
クリエイティビティ
新しい物事を作り出すこと

同情し、イマジネーションやクリエイティビティを駆使するまではあくまでも同情で、理解と言う工程がとても共感において重要なファクターである。

共感のソリューションとは何か

想像力でも創造力でも、共感はできないとき
共感のソリューションは何になるのか
そもそもソリューションを用意し用いて解決する必要はあるのだろうか

前項にも書いたが、理解がとても大事で、
自己理解でなく、他者理解であるとき
共感に近づいているのかもしれない。

知っている世界は狭い

人間は自分が思っている以上に、知っている世界は狭く、
知っている世界の範囲も理解できていない。
意識的/無意識各々の世界が存在し、当人はその世界が
意識的に得た世界なのか、無意識に得た世界なのかを理解していない。
そしてそこを考えない。考えること自体が無意味なのかもしれない。
無意味をそのまま無意味にするのか、無意味に意味を見出すのか
ちょっと哲学的な話になりそうである。

知らない世界が広い

すなわち、知らない世界が広く、自分なんてちっぽけな人間なのだw
知っている世界は狭く、知らない世界が広いと言う事実を認め、
そこに絶望を描くのか、希望や期待を産み出すのかで
答えは大きく変わってくる。

経験、経験値が共感のカギ

他者への想像はまず自己の経験、経験値がカギ(+妄想力)
自己の体験・経験における経験値で他者への想像を行い、その先に共感の有無の判断に至る。
感じ取ることとそこから先のアクションを起こすこと(その判断)も別の話だ

郷に入れば郷に従えではない

郷に入れば郷に従えではない
組織、空間においてルールがあるが、それを守ることよりマイルールを優先するシチュエーションはとても多く見受けられる。
誤解を恐れずに物申せば、社会的通念やモラルを超え、マイルールが優先されつつある。(社会的通念やモラルを経たマイルールがあることも事実)

マイスタンダード

マイルールが個々に尊重され、法を犯さないまでも、
自己都合、自分勝手な主観的判断を振りかざし、ゴーイングマイウェイな行動には目くじらを立てざるおえない。
自己都合、自分勝手な人に共感を求めることがナンセンスになってしまう。
自己都合、自分勝手な人ほど自身への共感は求めがちだと言うナンセンスもここに記しておく。
マイスタンダードがスタンダードなのか考え立ち止まる瞬間は
大きなアクションとなる。

共感できる事は幸せなのか

ボクは共感できる(と思っている)←ここが大事。
幸せだけど、不幸。幸せを知るから不幸。
そもそも、幸・不幸の範疇の話ではない。気がする。

冒頭にも書いたが、

共感できる≠共感される

であるので、一概に幸せだとは言えない。
少なからず、ボクは幸せでいない。

共感されるボクであれば幸せなのかもしれない。

共感はするより、される方が良いし、幸せ。

【結論】共感をひとに求めてはいけない。

なんでこのnoteを書いたかと言うと、
昨日働いていて、いろいろ考えたからだ。(正確にはイライラ)

同情はしやすいし、されやすいかもしれない。

元も子もない話だが、
共感及び他者への理解、他者からの理解を求めてはいけない。
日常生活において”かもしれない”運転は存在しないのと等しい。
しかし、自らアクションを起こせば、自らの受け取り方も変わるだろう。

この話はこんなところで

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