見出し画像

「伝える」が、バズるに負けている。 #表現のこれから

今日もどこかのツイッターが炎上している。クソリプが飛び交い、誰かを傷つけている。いきなり激しい言葉で、自分と反対の立場の人を罵倒する。どれだけ一生懸命に対話をしようと思っていても、話が噛み合わない…。

20年前にネットが出てきたとき、もっと希望があった。力があるマスコミや権力者じゃなくても、誰もがネットの力で自由に情報発信をすることが出来るようになり、社会はもっと多様に、もっと良くなると思っていた。

どうしてネットはこんなに”荒っぽい場所”になってしまったのだろう?

それは、「伝える」ということが、バズることに負けているから、ではないか?

そんなことを確信した「ある経験」をしたので、ここに書いてみたいと思います。

表現のこれから-BANNER-FB-MOBILE

電凸の現場に行ってみた

今年8月から10月に開かれた「あいちトリエンナーレ2019」。2010年から3年ごとに開かれている「国際的なアート展」。今回は思わぬ形で注目を集めてしまった。ここで展示されていた、慰安婦をモチーフにした少女像や昭和天皇の肖像画を焼却したとみられる映像作品が「反日的だ」「税金を使って不快な作品を見せた」などと炎上したのだ。

ツイッターなどSNSで批判が広がり、事務局にはたくさんの抗議電話(「電凸」)がかかってきた。

どういう人が批判しているんだろう?私は10月中旬、名古屋市のマンションの一室を訪れた。ここに、アーティストたちが抗議の電話を受け付けるJアートコールセンターがあったからだ。

画像2

Jアートコールセンターのロゴ​(DESIGNED BY 鷲尾友公)

演出家・アーティストの高山明さんが「アーティスト自らが抗議と向き合い、対話の可能性を探る」ために立ち上げた。ここで過ごした4時間の間、次のような声があった。

・「慰安婦は売春婦ではないか」

・「反日作品に、補助金を使うのか。許せない」

・「(あいちトリエンナーレ芸術監督をつとめたジャーナリストの)津田大介さんはどうして金髪なんだ」

画像3

電話を受け付けるアーティスト。子供と一緒に、丁寧に話を聞き、自分の言葉でアートの意義を語っていた。抗議だけでなく、アーティスト達を応援する声も少なくなかった。抗議でも応援でもなく「話を聞いて欲しい」と思われるような電話もあったのが印象的だ。

抗議をする人は、作品を見ていない可能性が高いと思った。「SNSで流れてきた」「ネットに載っていた」という言葉も繰り返していたからだ。

「みんな愛知に来ればいいんですよねぇ…。作品を見れば分かるのに」。私は、少しやつれた表情の、あるアーティストに向かって、思わず口にした。みんなちょっとだけ疲れていた。相手からの電話は1時間近く続くこともあるからだ。

しかし、私の意見はズレているのではないか。そのことに気づく。そもそもネット社会とはそういうものではなかったか。

画像9

ネットの良さはオープンさ、だった

ネットの良いところは、遠く離れた「現場」の様子をスマホ一つで見られること。「あいちトリエンナーレ」会場がある名古屋まで来られない人、現代アートを普段見ない人もスマホがあれば作品を観賞し、誰もが好きに意見を言える。とても「民主的」だ。

ところで「あいちトリエンナーレ」の芸術監督、津田大介さんはツイッターを日本に広めたジャーナリスト。そのきっかけは10年以上前の2007年春、文化庁文化審議会の著作権に関する集まりだった。

出席していた津田さんが会合の様子を次々とツイッターに投稿。その後も、シンポジウムや会合の情報を公開することで、「tsudaる(つだる)」という言葉が生まれた。

専門家、官僚、政治家らが囲っていた情報を津田さんが、みんなに広め、受け取った人がさらに誰かに情報をパスする(「バズ」らせる)。社会はオープンになった。

画像4

バズるを手に入れることで犠牲が出た

一方、ネットによって「民主性」が高まった分、「文脈」がそぎ落とされてしまったようにも感じる。私たちは「バズる」を手に入れた分、「伝わる」を犠牲にした。

ここでは(A)「バズる」コミュニケーションを、素早く伝達され、「エモさ」や「怒り」による過剰な共感を原動力にするもの、と定義する。意見の交換より、みんなで気持ちをスッキリさせることの方が時には重視される。

対して、(B)「伝える」ためのコミュニケーションは、少し時間をかけて行われ、論理や表現の工夫を頼りに、相手に自分のメッセージが理解されることを重んじる。最終的に分かり合えず、相手との違いが分かってモヤモヤすることもある。

実際は(A)(B)両者が入り乱れているのだが、便宜上、こう分けてみる。

画像10

「バズる」ことの良さも、ある

これまでの新聞・テレビのような「一対多」のブロードキャスト型コミュニケーションと違い、SNSによって誰もが発信者にも受信者にもなれる「多対多」のネットワーク型のコミュニケーションがあらわれた。情報を受け取った瞬間に、他の人にも広められるので拡散が早い。

新聞やテレビの社員が職業として、情報を編集して発信すること(A「伝える」コミュニケーション)と違い、多くのSNSユーザーは、情報発信によって対価をもらえるわけではない。その分、文脈をおさえて伝えるより、自分の感情の表出をメリットと感じるのかもしれない( B「バズる」コミュニケーション)。

もちろん「バズる」メリットもある。性暴力やハラスメント、保育園の不足を訴えるネットの声をハフポストは、サポートしてきた。マスメディアによる情報独占が失われ、バズることで埋もれていた問題が明らかになった。とても良いことだ。

一方で、そうした訴えの背景がうまく伝わらず、「不快だ」と思うバックラッシュの感情もネットで増えた。ハフポストも、日々反省をしながら発信方法に悩む。

画像6

バズるが力を持つと三つのことが起こる

あいちトリエンナーレ。

バズるによって、多くの「文脈」が失われた。たとえば少女像がモチーフとしていた「慰安婦」はその強制性や人数などをめぐって、歴史的な論争がある。私が働いていた朝日新聞も、記事をめぐって謝罪をした。各地の慰安婦像が、政治や外交で「利用」されている面もある。

とはいえ、少女像を目の前で見たときは、感動をおぼえた。像は小さく、鑑賞者がとなりに座れる。生きた少女が近くにいるようなのだ。体温や息吹が感じられるようにも思え、「慰安婦論争」を超えて、戦争によって犠牲になった女性や子供たちの悲しみが伝わる。像をつくったキム夫妻は、ハフポスト日本版の取材に対し、「平和の象徴です」と話している。

当然、Twitterでは、こうした展示の意図や見る人の複雑な心のゆらぎは「伝わら」ない。「バズる」が力を持ち、文脈が伝わる時間的余裕も、伝えるための動機もなくなるからだ。すると、以下のことが起こる:

① アートなどの問題提起型のコミュニケーションや、ひねりのある表現が通用しない。

② そのため、情報の受け手が、場合によっては、自分の価値観が攻撃されていると思い込んで、過剰に反応する。

③ 発信者と受け手が入り乱れ、コミュニケーションが大混乱して終わる。

画像5

Jアートコールセンターにて(蓮沼昌宏さん)

クソリプ時代の「#表現のこれから」

こんなことがいま、至るところで起きている。

絶望的だ。

いや、果たして本当にそうだろうか?

ネット炎上に参加する人は1%程度だと言われている。また、大阪大大学院の辻大介准教授の研究などによると、ネットによって「排外主義」が強化されるものの、別の立場のメディアなどに触れることで、排外主義の反対の考え方を支持するようになる可能性もあるという。

ハフポストはリベラルで、「排外主義」に反対する立場だ。だが、リベラルと保守派に感情的な対立が起き、それを見ている「穏健派」が、荒れているネット(クソリプ等)を見て、引いてしまう、ということも課題だと感じている。

ネットメディアがまだまだやっていない宿題が多いのだ。いまは「バズる」コミュニケーションが目立つが、より「伝える」ためのコミュニケーションを作り出すことはできないか。小さな試みだが、ハフポストでは「#表現のこれから」という企画で以下の3点に取り組んでいる。

①リアルなイベントを開く。人が集まって、意見を交換するのは、「バズる」よりずっと遅いが、かえってその方が「伝わる」。今のところ次の二つを予定し、ほかに企画中のものがもう二つある。

・10代が社会を考え、意見を言ったらダメですか? 春名風花さん、今井紀明さんと考えます

・ロバートキャンベルさんと一緒に、200人で賛否両論のアート作品を見てみよう

②異なる立場の人に話を聞き、相手の「文脈」を可視化する。「表現の不自由展」に反対していた河村たかし・名古屋市長に話を聞き、セクハラをPRに利用したDJ社長のインタビューを載せた。今後も様々な人に話を聞く。相手の論理やその背景となる文脈をまずは知り、後世の検証のためにも、記録として残す。その上で批判することも十分あり得る。「バズる」より議論のスピードが遅くなるが、その方が、会話は発展するのではないか。

③Twitter上にハッシュタグ「#表現のこれから」をつくって、様々な記事をつなげる。格闘家の記事も、テレビスターの記事も、あいちトリエンナーレの記事も、「表現に関係する記事」は一括りにする。様々な記事の多様な文脈を読者に知ってもらいたいからだ。

イベント春名さん投稿用画像

表現のこれからキャンベルさん投稿画像

表現は本来楽しく、生き生きとして、新しい自分に気づかせてくれるものだ。その魅力をうまく感じられる企画にしたい

私は「うまく伝える」ことより、素直な怒りや悲しみを表現した方が社会が変わるとも思っている。そのうえで、情報を扱うプロのメディアとして「ネットとリアルとの組み合わせ」次第でもっとできることはある、と信じたい。

色々な方からのアイデアやご意見もお待ちしています。ぜひTwitterのハッシュタグ 「 #表現のこれから」でコメントなどをお寄せください。

*【11月15日 10:30am 編集後記】ところで、このエントリは11月12日にハフポスト日本版に掲載した記事をもとに再編集したものだ。ハフポストはニュースを扱うメディアなので、元の記事では、(A)あいちトリエンナーレで問題とされた作品など《時事性の高い報道写真》を載せた。noteは、クリエイターの方が多く集まる場なので、(B)あえて抽象的な《イラスト》を写真の代わりに使った。元の記事と雰囲気が変わる。ひょっとしたら「政治的議論」から離れてメッセージが伝わるかもしれない、という仮説だ。文章は発表する場のデザインに規定される。このnoteのエントリ自体も、「伝える」の工夫だと思っています。元記事はこちら


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

709
ハフポスト日本版編集長。「会話が生まれる」メディアを目指しています。慶應義塾大学法学部卒。2002年朝日新聞社入社、2016年退社。朝日新聞の経済部記者、新規事業開発を担う「メディアラボ」を経て、2014年〜2015年スタンフォード大学客員研究員。 2016年5月から現職。

コメント3件

プロの方の記事ですから、多くを語ることもできませんが、問いの根源は表現方法で、今日的トレンドとして、その機能が危うくなってきている、というという指摘ですね。個人的にTwitterもfacebookもやってますが記入してません。内容意見が画一的で、そこから規格外が叩かれる、という構造だと感じます。ネット上の「炎上」は世間話しの「いじめ」の変形で、弱いものいじめはおそらく2千年くらい歴史だとおもわれます。個人SNS発信の歴史がないので問題視されますが、普遍的になくならない、と考えるのが理に適う、と私は思います。考えられるのは「リテラシー」の再構築です。古典は学びますが、現代会話の仕方、は教えてません。今更きけないそれら性教育と現代語を、社会はいま臨床的に実験研究して、社会を変革する必要があると思います。
そもそも「クオリア」問題があって、個人の所有物である脳は他とは「完全なる同期」はできないもので。だがしかし、人は理解されたいと願い、自分が正しいと思いたい。ネット社会が晒すのは人間の脳の不完全さ(そもそも幻想と事実の理解も脳にはできない、眼球が球体であるのに脳は並行と処理するように)そんな風に少し捻くれてみると、人間はいつの時代も変わらず、妄想に囚われ、苦しみ、もがいているのだなぁとも思うのです。
竹下隆一郎さんは、YouTubeの「李承晩TV」を視聴したことはないでしょう。
是非、視聴してみてください。あるいは、今年の11月15日に出版された「反日種族主義」という本を読んでくださっても結構です。これまで朝日新聞がどれほど嘘を書いてきたかよく理解できると思います。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。