苦手なのは推しの恋愛シーンじゃなかった

いとしの儚の割り切れないところについて。楽しい感想はこっち。

いけないものとしてやっているのが救い

まずはじめに、私は性愛至上主義と家族至上主義に居場所を見いだせない人間なのでバイアスがかかっています。観劇前に戯曲を読んだときに、男女しか登場せず(同性愛者すら一方の性自認を女性にすることで「男女」に落とし込んでいる)女が男の所有物になっている上に誰もそこに抵抗する意思もないように見えて、楽しみになれなかった。でも舞台では、儚はもちろん、女郎屋の女将も他のキャラクターも皆、そこに意志があるように見えたのが救いだった。鈴次郎が儚を賭けると聞いた途端、自分の一振で一人の女の人生を変えてしまうと悟った顔をした壺振りのお銀。壺を振ってから開けるまでの緊張感と、結果がわかって何かが抜けたような顔に、この人も同じような過去があったんじゃないかと思えたり。男尊女卑の構造に吸収された女将さんが、そこにやりがいを見いだして、商売の主体になっていたり。三木松はどちらの性別にもとれる見た目をしていて(言葉や立ち居振る舞いも他の男性キャラと同じくらいだったらアップデートになっていたかもしれないが、それを私から押し付けるのは逆効果)何より本人がイキイキしていて、その役割に引け目を感じていないように見えたり。
戯曲を読んだ時はクズを翻弄するヒーローに見えた賽子姫が、ただの無邪気な子供に見えて、構造を憎みすぎたが故に気づかぬうちにあらぬ使命を押し付けていた自分に気づけたり。
一人ひとり様々なものを抱えていて、それらを一つの理論で現代に合ってないと断罪するのは、ちょっと違う。それこそ私が嫌なものと主語が変わっただけで同じことをしているんじゃないか。

女性キャストがそういう役作りをしてきたこと、男性キャストも「いけないこと」としてやってきたこと、舞台からそれを感じたのと、観客も賛否両論だったことに、ひとまずは救いを感じている。

それはそれとして

配慮と、アップデートも必要だったかなと思う。
初日に観劇した人たちから、主演二人の性愛の場面の丁寧さに安堵する声はたくさん見られた。気持ちはわかる。私たちの推しはそういうのが苦手だし私たちも得意じゃないし、不安だったよね。でも頑張って挑戦するなら見届けたい。そういう気持ちをかなり汲み取ってくれた演出だったと思う。それは有難いけれど… 
私がこの戯曲に感じた不安は「推しの恋愛シーンがある」だけじゃなかった。この戯曲の古さをどう扱うか。そして役者の心が守られているか。戯曲の古さに関しては、最初に書いた通り、役者から「いけないものとしてやっている」ように感じられたからひとまずよかったと思う。
主人公同士の性愛の場面は非常に丁寧に作られていたものの、それの対比としての演出だとしても、幼い儚が女郎屋に一人置き去りにされる場面はかなりきつかった。性犯罪の場面を、展開上必要なこととして舞台からありありと発する時に何の配慮もないなら、やはり興行側に抜け落ちている視点があったのではないかと思ってしまう。上演する自分たちが「いけないことと」と理解して「これを観て学びを得られるはず」と考えられるなら、「自分たちはどうしてその健全な思考ができるのか」その足元に目を向けて欲しかったな。当たり前のものを持たない者に目を向けて欲しかった。私は「別に私は平気だけど」は特別な立場だと思う。どんなに気を付けていても、その立場でいられなくなる危険性は誰にでもある。観るか観ないかは観客が決められるのだが、もう少し注意喚起くらいしてもよかったのではと思う。

私の嫌いな演出をしないでというわがままが半分と、生きづらいものが生きづらくなくしていきたいという抵抗が半分。茅野さんはまたいつか再演したいと言っていた。その時はもっと、観劇するかどうか判断しやすい公演であってほしいと思う。そんな中で、それぞれが疑問を持ったこと、それが結構希望だと思う。

そういった配慮とともに、2023年に上演するならアップデートは必要だったかな… 例えば、同じ下ネタでもジェイミーのディーンが言う下ネタと鈴次郎が発する下ネタは意図が違う。この二つの作品は目的が全く違うので、引き合いに出すのもおかしいかもしれないが、、いとしの儚の世界でベースになっている「家族が至上であり女は男に従うもの」という感覚が、今日の社会で何をもたらしているか考えた時(つい最近おそらくそれが一因で命を落とした方がいますよね)ただそのまま上演していいのか。考えすぎかなあ。アップデートしたらその作品らしさがなくなってしまうかもしれないが、作品らしさを維持しながら、現代の価値観に合わせていく作業をするときに、生まれる創造性もあるのではないかと思う。すみませんいち観客がえらそうに。

「好きな人は好き」な作品だと思う。それはそれでいいんだ。嫌なら観に来なければいい。でも、そうやって0か100かで割り切れないのが現実で、そこで少しでもいい方向に持っていくために何ができるか、考え続ける必要があるんじゃないか。
「割り切れねえ」と嘆く鈴次郎を観ながら、そんなことを思いました。