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妹ができました。

写真は本題とは関係ない。主題であるお茶会が終わったあとに所用で大学に行ったのであるが、その通り道に見かけたカフェの写真だ。勉学に勤しむ学生を応援しようという気概が見えていて、とても好ましく思った。

さて、表題をご覧になった方は、ひょっとして「またグスタフに妹ができた話か〜」と思われたかもしれない。しかしそうではない。
この私、めるかとる齢50歳にして妹ができた話だ。しかも一日に二人も。こんな目出度い話はないではないか。

私に異母妹がいると聞かされたのは10歳代後半のことだったろうか。

私の両親は私が2歳のときに離婚し、私は父の生家のあった小田原を離れ、熊本に移り住み、母方の実家で祖父母とともに母に育てられることとなった。それ以来、父とは一度も会っていない。というか、私がおそらく8歳の頃、父は交通事故で亡くなったらしい。
しかしながら、何故かしら私は、物心ついたときから「お父さんは死んだんだよ」と言って育てられた。離婚を負い目に思った母の、悪気のない嘘だったんだと思う。確か高校生になるときに、「実はお父さんは亡くなったからいなかったわけじゃなくて、離婚したんだよ」と教えられた。しかしその時点では本当に亡くなっていたので、嘘も方便が大事にならなかった事象だ。

そしてまたその数年後だったか、これがまったくよく覚えていないのであるが、実は私には腹違いの妹が二人いるんだよ、と教えられた。今思えば、なぜ母はそのことを知っていたのだろうかと思うが、母が亡くなっている今、そのことを確認することはできない。
当時の私は、いや、その後数十年に亘ってずっと、あまりそのことを気に掛けたことはなかった。時おり冗談のようにして「腹違いの妹がいるんだ〜」と友人に話をすることはあったが、基本的に別世界のことだと思っていた。

ところが少し前、小田原市役所から手紙が届いた。
異母妹の方が連絡を取りたがっているので、こちらの番号に電話してください、とのことであった。最近は個人情報の管理が厳しく、親類であっても個人情報を教えてもらえないのだ。今回のように片方が連絡先を開示して、連絡を待つというのが唯一の解決策だ。

この手紙を受け取ったとき、およその理由の察しはついた。私が、小田原の生家の土地を、ごくわずかな取り分であるが相続しているからだ。そのために、大半の権利を持っている人であっても、勝手に売買できずに困っているはずなのだ。
そのことは私にとっても驚くべきことだ。私の両親が離婚するとき、私は父方の家系とは縁を切っているので、たとえ遺留分といえども、本当に土地を相続するなんてことがあることがびっくりだったのだ。2歳のとき以降、まったく縁のなかった土地を、わずかとは言え相続するとは、誰が思おうか。

土地を相続できるなんていいな〜、などと思うべからず。元からして猫の額ほどの土地であるし、さらに上に建っている家屋が崩れて廃屋のようになっており、土地を売って得られる代金よりも解体費や名義変更費用の方が高く付きかねない物件なのだ。

さて、手紙をもらった私は、何の躊躇いもなく異母妹の一人に電話した。記念すべき初の会話だ。何十年にも亘って存在だけはおぼろげに認識していた異母妹が、実体となって私の前に現れた瞬間であった。
その小田原の土地をどう処分するか、ということがテーマではあるが、その内容はnoteにはふさわしくない。というか問題ではない。そのことをきっかけとして、異母妹と接点を持つことになったことが記念碑なのだ。

その後、LINEでも繋がり、なんとトントン拍子に会うことになった。しかも妹二人(双子だと聞いていたが、それは誤報であった)とも揃って出てきてくれるというのだ。
私は、なんとも言えない不思議な気持ちで、待ち合わせ場所へ向かった。

私は、母から父の愚痴を聞いたことは一度もなかったし、なぜ離婚したのかも聞いたことはなかった。しかし異母妹たちとしては、私との年齢が思いの外近いことなどから、略奪愛だったのかもしれないと心配したり(事実は知らないが、どうでもよいことだ)、あるいは私が彼女らを恨んでいるのではないかとも心配していたようだ。もちろん杞憂だ。

しかも私に父の記憶がないように、彼女らにも父の記憶はないのだ。彼女たちが4歳と2歳のときに、父は事故でなくなったらしい。そういう意味では、私も彼女たちも、父を知らない父の子どもたちなのだ。

彼女らとの面談(お茶会)は、非常に和やかに進んだ。土地の処理についてもスムーズに方針の合意を得たし、私が露ほども恨みなど持っていないということがすぐにわかってもらえたと思う。
打ち解けて話すうちに、遠い昔からきょうだいであったかのような会話ができていたと思う。(ただし私の特性上、会話はすべて敬語だ。)異母妹たちも、まるで従兄弟のお兄さんと話してるみたいで何も違和感がないと言ってくれた。そしてなんと、お茶が終わる頃には「今度はゆっくりお食事しましょうよ」と言ってもらうことができた。
45年の年月を経て巡り合った異母きょうだい。波長が合わなければこの日一度だけの面談に終わることも十分にあり得たが、幸いにも今後長い付き合いになりそうな予感だ。

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