小説 ある哲学徒の憂鬱
小説 ある哲学徒の憂鬱
若者、彼の生活の目下に暗雲あり。当座だけのメランコリーならまだよい。しかし普段なら直ぐに消える憂鬱が腹の底に沈澱するような、そんな重苦しい物が確かにそこに、在る。
昨日に考えていた哲学が原因だろうか。妙に腑に落ちたのが、これがいけなかった。思想、思い考えるということは僕にとって逃げ場でありそれ自体が目的となっていた。
その疑問が解消されてしまった。正確に言えば解決の目処が立ってしまった。それが問題となっていつまでもその喪失感が僕を支配していた。
だが、僕は哲学徒でもあってゲーマーでもあった。その哲学に検証を施したくなった。筋道が分かっているゲームが昔から好きだった。
人生というゲームをどう生きるか。今この時をもって哲学徒はゲーマーへと変貌した。無力な哲学徒、考える葦に足が生えた。
大いに盛り上げて頂きたい!偉大なる革命家は小説を書くという芸術行為を通して現世で成功することを願い、たった今哲学者であることを辞めた。それを誰が否定できようか。誰が石を投げられるだろうか。
読者諸君、私は今無理をしている。本当ならば、いつまでも真理を追いかけて苦しみ抜きたいものだ。しかし、そのメランコリーを追求するのにこの現代日本の社会構造はあまりに不向きであり、辛いことである。
しかし、シンプルに考えよ。賢者は愚者と同じステージに立つ演者だが、そこに至るまでに賢者はどれだけの苦労を持ってそこに辿り着いたことだろう。辛い回り道もあったろう。
そこの舞台に立つことで、彼は人間としての社会との相対関係をようやく持った。メランコリーを持って人間になり直した。
今賢者は生まれ変わった。そう、愚者になり直すことにより、新たな問題解決の視座を得たのだ。
決して、君は芸術を軽視したのではない。苦しみ抜いた上での君の決断を誰が非難できようか。誰が君の人生を否定できようか。
そう考えると、この世が少しはマシに思えないかい。読者、いや天才諸君よ。
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