エンタメレビューVol2 文庫本『月まで三キロ』

最近、数学というものは、机に向かって黙々とやるアクティビティの中では、かなり"外向き"なアクティビティなのではないか、ということを感じている。
ここでいう"外向き"とはどういうことかを改めて詳しく書く日がきっとくるのだけれど、それはここではないので今日は深堀りしない。
とはいえこのままでは、この単語がただ浮いているだけでなんのことだかわからないので、少しだけ、そのアウトラインだけは書くことにする。

世の中の様々なことを解釈する際、何かしらの思考の作用があって、それによってそれらのことを頭にいれる、というのが人間の思考原理のひとつだと思う。
その様々なことは、対他人の感情や感覚の共有であるコミュニケーションであったり、社会制度であったり、とにかく様々なことだ。
この解釈の際の作用である思考方法のひとつとして、数学というものは役立っていると感じている。
この解釈作用は自分の外のものを自分の中にいれるというアクティビティであると考えたとき、自分の外のものを解釈する意味で、"外向き"、と表現した。

私自身は、年がら年中こんなことを考えているわけではない(とはいえ、自由な時間は常にこういうことばかり考えろ、といわれたら可能ではあると思う)。
こういうことを考えるに至ったきっかけは存在していて、特にここではある短編集をそのひとつとして紹介したい。
伊与原新 氏著『月まで三キロ』である。
6編の短編を1冊にまとめた作品で、本作は新田次郎文学賞等を受賞している(※文庫ではなく、単行本刊行の時点)ようだ。

氏の作品との出会いはこの本ではなく、これの次に文庫として出版された、『八月の銀の雪』である。
こちらについては、かなり短いレビューだが、旧Twitterで以下のようなtweetをした。

『八月の銀の雪』、ようやく読了したのだけど、表題作は特に引き込まれた。各人もつ様々な事情と表面上の表れを、地球の内核表層における金属結晶の動きとなぞらえて表現する様は、見えないものを仮定し推測する様式であり、論理で感情を比喩するものとして鮮明だった。 ……Twitter、余白少ない(笑)

https://twitter.com/ruy_premier/status/1680285932145250306?s=20

実はこのエンタメレビューという企画自体、同作を読んだ結果、もう少しこういった良著を読んだことの結果を記録として残すべきだ、と考えたことがはじまりである。
そういう意味では、伊与原氏の著作が自分に与えた影響は大きい。

高々2作読んだだけなので、氏の作品として評するにはまだ早くはあるが、少なくとも伊与原氏のこの2冊に描かれた11編には、共通することがある。
全て、小説のモチーフとして氏の理工学的(理工学的と表しているが、理学なのか工学なのかということを語りたいのではない)な知識がふんだんに使われている。
断わっておく必要があるが、理工学的な知識を読者に求めているわけではなく、あくまでモチーフなだけである。
また、これも断っておく必要があるが、理工学的な内容がとても強いのでもなく、あくまで描写の要点に理工学的なものが関わっているだけである。

理工学的なもの、と聞くと、おそらく数式がイメージされるであろうが、いくら新田次郎文学賞の作品であっても、文学作品である以上、そうそう数式は出てこない(ない、とは言い切れないが、バンバン数式が出る小説を読みたいという人は稀であろう)。
本作『月まで三キロ』にて扱われる理工学的な知識、理工学的なものとは、月が地球に常に同じ面を向けている(が、昔は違う面も見せていたという)こと、火山灰や化石等から堆積した当時のことがわかること、あるいは気象予報の降水確率0%は絶対降らないという意味ではないこととか、そんな程度である。
もちろんノジュールとか、クオークとか、本格的な専門用語も出てはくるが、読むにあたって知っておく必要はない。
なんなら、そういった専門的な話が作中で語られる際に、登場人物すらその話に興味を失って他のことを考えていることすらある(表題と同名の短編が顕著な例である)。
理工学的な知識、理工学的なものというのは、まあ端的に言えば小難しいのである。

それでも、氏の作品中で理工学的なものが少し詳しく扱われているということは、氏の作品の魅力を高めている最大の要素であると思われる。
理工学的なもの、すなわち自然科学とは、自然を扱う科学なのである。
東洋的な考え方をすれば、人間も自然の一部である。
科学として分析するからには数式は必要だが、これは小説である。
自然を感覚と共鳴させる上では、数式はいらない。
しかし、その共鳴をもたらすために、手法のひとつとして、自然科学の事実を詳しく描くことによって、ある種対極にあるといえる感情への訴えかけを試みているのである、と感じる。

月が今は同じ面しか見せないが、かつては他の面も見えていたというファクトは、それだけであればただの科学的事実にすぎない。
ただ、これが人の成長との比較で用いられた時、月と地球というテーマを離れて、感情への訴えかけを行う。
この訴えかけを得たとき、ふと読む手をとめて情景を思い描くと、月の地球から見える面という事実が、科学的な事実から離れた、人間の感情上の別の意味をもって、イメージしやすい別の例へとなっていく。

あくまで作中の人物の人生を切り取った瞬間に対して、自然科学が介入するという形でより鮮明に感情が描かれ、科学事象がその科学的事実を離れて、別の作中でのみ意味をもつ形となって読者により鮮明な情景想起をもたらす。
氏の11編は全てこの構造であるが、どれも面白い。
その面白さを、作中の表現を引用して語りたいところではあるが、そうしないでただ読んでいただくことをおすすめする(アフィリエイトする気はないのでAmazon等のリンクは張らないが、新潮文庫を手厚く扱う書店ならきっと置いてあると思う)。

私個人としては、今作収録の「山を刻む」が一番好きだ。
-たった一言、言っていれば何かが違ったかもしれない-
奇しくも収録1編目の「月まで三キロ」と最終編である「山を刻む」には上の同一のサブテーマがあるように思えるが、「山を刻む」は終話に向かって希望があふれていく。
山は、良い。

長々と書いているうちに、実は日付がかわって月曜になっている。
また仕事の日々にはなるのだが、そして私の仕事はどう頑張っても凡人には地球科学的な要素が影響することは思いつかないのだが、これをただの苦痛とはしない何かはきっとあるのだろう。
とりあえず、寝なくては働けない。

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