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20代史上、最高の仕上がり~第1章②~

そんなこんなで練馬幼稚園入園。

入園式では、母ちゃんから離れたくなくて終始号泣していた。

この時は、仕事であまり家に帰ってこれない父ちゃんだった為、常にママママの子供だった。

仲の悪い両親で、母ちゃんが父ちゃんのことを悪くいうもんだからそれに洗脳され、僕はここから20歳を超えるまでずっと母ちゃん派として過ごすこととなる。

幼稚園の時で覚えていることといえば、"そばの畑のそばの娘"という謎の作品で盗賊の役をお遊戯会でやったこと。

今思ってもあれはなんだったんだろう。

他のクラスはトイストーリーとかピーターパンとかやっていたのに、なぜ僕らは"そばの畑のそばの娘"だったのだろう。

誰かがやりたいと言い出したのかな?

他の思い出としては、おやつの時間に手をチューリップの形にすると先生がたべっこどうぶつを3つ手にのせてくれるという何とも"お手おすわり"じみたやり取りがあったこと。

初めてそれが行われた時、ひとつ食べて美味しかったので、残りのふたつはティッシュにくるんで持ち帰り、母ちゃんにあげた。

まあそんな話はどうでもいい、そんなことより何より大きかったのはこの頃から友達が出来始めたことだ。

春日小学校入学。

小学校二年生の頃、サッカーを始めた。多分幼なじみが始めたから俺もやりたいとかそんな程度の理由だったと思う。

その日はカラーコーンをドリブルで交わしてシュートを打つという典型的な練習をしていた。

幼稚園から同じ小学校に行った幼なじみも同じサッカーチームにいた。その練習中、前の子の順番を抜かした幼なじみがコーチに呼ばれ怒られた。

すると僕はすかさずそこに行き、

「こいつはただ練習がしたいだけで、わざと抜かしたわけじゃないと思います。」

と言ったらしい。

これは18歳になって久しぶりにコーチに会った時に教えてくれた話だ。

当時7歳の僕にそんなこと言われたコーチは軽く衝撃だったらしい。その歳でそんなこと言うやつは初めて見たと。

でも今思うとなんだが、あの頃の幼なじみは身体もでかくて、ガキ大将感満載だったから、あれは「置いどけ、お前」の精神で絶対にわざとだったはずだ。

なあそうだろう?

まあ、それでもその頃から人を庇うという精神状態になれていたと思うと、あの頃の自分を褒めてあげたい。

そして、お前は20年以上経ってもあの頃のままだ。

この頃に出会ったのが、今でも仲の良い地元の友達だ。

最近は出来ていないが、学生でなくなったあとも定期的に集まったり、時にはサッカーをしたり、誰かが結婚すればみんなで結婚式に参列したりする友達だ。

かけがえがないとかそんなレベルのもんじゃない。

家族そのものであり、みんな好きだ。

会ってないとか連絡をとってないとかそんなことはどうでもいい。

会えばあの当時のまま、色々迷惑をかけたり、疎遠な時期も確かにあるが、出来ることや立場や環境が変わっただけで、僕らは何も変わっちゃいない。

なんでそこまでの関係性になれたか振り返ってみると、1つ理由としてその頃の23区の学校では珍しく、同学年に2クラス(1クラス24人)、学年で48人しか居なかったという少人数制のお陰で仲が深まったんだと思う。

みんないつもありがとう。また遊ぼう。



小3の時、大好きな山本先生という人がいた。

クラス替えと同時に担任になった先生だ。

山本先生はある時、戦隊モノの話をしてくれた。

僕は戦隊モノが大好きだったのでどんな話だろうと前のめりで聞いていると、黒板に戦隊モノ5人VS敵1人の絵を先生が描き始めた。

先読みしてよくある話をするんだろうと思った。悪者を懲らしめて○○レンジャーってかっこいいよねとかそんな事を言うんだろうなと思って聴いていると、

「5対1って敵、可哀想だよね」と一言。

拍子抜けだった。確かにそうだと思った。

悪者とはいえ、筋を通してそこは戦隊側も代表者1名で戦うのが筋だと。

最初の敵側のよくある雑魚は5人で倒したとしても、最後はサシの勝負だろと。

その頃から僕は戦隊ものがなんかずるいと感じて仮面ライダー色がどんどん強くなっていった。

山本先生のあの教えは今となってはよくわかる。

そんな恩師とも言える先生に出会えてよかった。

あともう1つ小学校の頃に嬉しかったことがある。

あれは確か5年生の時。

うちの小学校では悲しいかないじめがあった。

明らかにあれは誰が見てもいじめだった。

それもひとつじゃなかった。

僕が鮮明に覚えているのはある女の子がいじめられていたこと。

攻撃されるその子に対して僕はその場でなにかしてあげることは出来なかった。時にはいじめに僕も加担することすらしていたと記憶している。

でも、それをやめようよと言えない自分がむっちゃ歯痒くて、何も出来ない自分もめちゃくちゃ嫌で、休み時間に話しにいったり、普通に友達として接していた。

そんなあるとき、バレンタインデーが訪れた。

そう、その女の子が義理チョコをくれたのだ。僕はとても嬉しかったことを覚えている。そして、"いつもありがとね"と一言手紙が添えられているのを見て「ああ、一人じゃないからねとか恥ずかしくて口が裂けても言えないけど、思ってるの伝わってんなら良かった」と心から思った。

世の中では大人になろうがいじめが存在している。

しかし、子供の頃の狭い世界でのソレは大人になった今では想像もつかないくらい苦しいものだと思う。

だから、止められなくても隣に居てくれる人が1人でもいてくれたら嬉しいなあと思う。

今は何してるかな。幸せになってるといいな。

練馬中学校入学。

1人裏切って別の中学に行った奴もいたがそいつを除いて、ほぼ小学校から同じメンツが行ったので、これといって今も鮮明に覚えているような真新しい事は起きなかった。

この頃は地元が尾崎豊縁の地ということもあり、憧れてタバコを吸ってみたり、好きだったサッカーを辞めたり、第1回WBCでのイチローのサヨナラヒットを黙って持ってきた携帯を開きワンセグでみんなで男子トイレの個室で見たり、友達とテスト中に何回もペンを落として「先生ペン落としました」を何回もやり、その隙に隣の頭の良い子に解答を見せて貰って赤点回避したり、オナニーを覚えたりしたのがこのくらいの時期だった。

1番大きかったのは、バンドにハマったこと。ワンオクやRADにどハマりしたのがとても大きかった。後にこの同世代のバンドと運命的な出会いを果たす。

杉並高校入学。

この高校を選んだ理由はただ一つ。

"とにかく校則が自由だった"

からだ。

これ以外に無い。

アルバイトをしてもよし、髪を染めてもよし、私服で投稿してもよし、単車で行っても注意で終わり、昼休みにコソコソタバコを吸って帰ってきても「タバコ臭っ」としか言わない担任がいたり、とにかく何をしても基本怒られない高校だった。

悲しいかな、今はもうそんな自由はなくなったらしい。

この高校を選んだのは僕の人生で大きなターニングポイントと言って良い。

後に知ることになるのだが、とにかく自由を求めて僕が選んだ高校がまさかの卒業生にあのルフィの声優田中真弓さん(本名あべまゆみさん)がいらっしゃったのだ。

「この世界で1番自由なやつが海賊王だ」

そう言わしめるのが、ルフィ。

自由を求めて入った高校でまさか先輩にルフィがいるとはなんという運命。

元々漫画は読んでいたが、より強くワンピースを意識するようになった時期であり、童貞を卒業できた時期であるのが、高校時代だ。

そしてそんな高校1年生のある日。

日本歴史にも残るあの大災害がやってきた。


つづく

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