二人の特別な関係

自己概念の枠組みで、自分を完成させるために、特別な関係を使うし求める。
そして自己概念の完成を達成できると思える対象を見つけたときには、自分自身から自己概念を譲り、その譲ろうとして自己概念を、他者の自己概念と「交換」しようとする。
これは融合でもなく延長でもない。
お互いが「最初から望んでいない自己概念」を犠牲(放棄)にして、それよりももだと好ましいと思える自己概念を手に入れようとする。

そして他者の自己概念を獲得するも、価値あるものを他者に与えないことに罪悪感を抱く。「よりよい」自己概念を獲得するあめに、与えてもいいし実際に与える自己概念なるものには価値を置けないからこそ、罪悪感を抱く。
(あなたの自己概念はいいですね!といわれないと、罪悪感を抱く)

「神の子が無防備のまま攻撃される状態に放置されている。この罪の責任は神にのみある」→神に罪悪感を抱かせようとする→特別な関係では相手が「神の代わり」として機能するので、兄弟に罪悪感を抱かせる。
特別な愛の関係は、武器であり、自ら積極的に罪悪感を放棄するつもりのない者たちにとって魅力的なもの。
贈り物が魅力的。
愛すると同時に憎むことがおかしなことだとは思わない。憎むことが間違っていると信じるものでさえも、罪悪感を感じるだけで、正そうとはしない。


「より良い」自己とは、より特別な自己概念のことであり、その特別な自己概念を所有するものが「愛される」のは、その者から奪えるものがあるからである。
お互いが、お互いの中に、この特別な自己概念を見るとき、「天国で作られたかのように理想的な融合」をみる。自我バージョンによる除外を前提にした融合。
これは地獄を求めたことを認識していないので、自我の天国の幻想を受け入れてしまう。これは天国を妨害する幻想。
天国の幻想とは、恐れの魅力的な形であり、この「魅力的な恐れ」には罪悪が深く埋め込まれており、一見愛のような形で現れているように見せかける


小ささが真実だという確信が、特別な関係を求める動機となる。何かを奪ったという感覚がある者だけが、特別性に価値を見出す。

特別性を求める要求と、特別性を与えること(これを愛の行為と見なす知覚)が、愛を憎悪に満ちたものにする。
特別な関係は、実相の否定と神への勝利を目的としている。


分離という宗教の祈祷文は、「あなたが生きるためには神が死ななければならない」というもの。

自分の自己概念の終わり(死)を手段とし、他者の自己概念を攻撃して、それを奪い取り、軽蔑している自らの自己概念と交換しようとする。
なぜ軽蔑するかといえば、「自分が要求している特別性を与えてくれない」と考えているからである。今のこの自己概念は(私が思う)特別ではないから軽蔑するし要らないし、そう見なすことでその自己概念を憎むことになり、小さく無価値なものとしてしまう。
特別

私たちは、真理を非力なものにし、真理から奪った部分的な力を、小さな自己概念に付与するほうが安全だと思っている。
これが特別な関係で演じられている。
二人の間で、それぞれが自分の自己概念を終わらせよう(死)としており、そして相手の破壊された自己概念から「他者の力」を手に入れようとする。そのために死んだ自己概念の上に、他者の自己概念を蘇らせよとするのである。これは何度も繰り返されるが、一度も完了しない。完了することはない。
生命は死=幻想から生じることはない。

まるで精神上のcannibalism。カニバリズム


特別な関係が、儀式の中で愛を探すよう唆すときは、「愛は形態にあるのではない。愛とは内容である」ことを思い出す
形態の中に意味はない。それは無意味であり続ける。
愛の意味を失ったしるしとして、神を殺した者に、望む他者の自己概念という強さが授けられる。神の死から強さが抽出さらた。これはまあ不可能なことであるが、可能であると望んでいる。
特別な関係とは、神の前に、別の神々を置き崇めることで、神の偉大さを覆い隠そうとする試みである。そして神々の小ささも隠してしまう。
崇めた偶像/神々は、真の自己の代わりとして、私たち自身の前に立ってしまう。

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