Ⅳ. 闇からの脱出

・闇からの脱出には二つの段階がある。
一つ目は「神の愛を、闇によって隠蔽することは不可能」という認識である。二元性、形態、自己概念(=闇)によって神の愛を隠すことはできない。この段階は、通常恐れを伴う。
二つ目は、「例え神の愛を隠すことが可能だとしても、私が隠したいものは何もない」という認識である。これは、恐れからの脱出をもたらす。何も隠さなくていいのだと思うようになったとき、進んで神とコミュニケーションをしようという意欲を持つようになる、そして平安と喜びも理解するだろう。

・私たちは「神の愛は闇の中に隠されることはあり得る」と自らを騙すことはできる。そしてそれは“確かに”欺瞞だと気づいているので、そんなことはできないと心では分かっているがゆえに、その嘘は自分自身を怯えさせることになる。また私たちはこの欺瞞を現実にしようと莫大な努力を傾けるものの、しかし、神の愛は闇の中に隠されることはない。

・対して、奇跡は真理のみを認めるので、私たちの自己概念という幻想を取り消し、神と結びつけるようにする。奇跡は、心を聖霊に仕えさせることで、心の正しい機能を確立し、「愛の欠如」という間違いを正す。間違い(罪)とは愛の欠如にすぎない。
愛を持たずに何かを知覚するなら、心は空虚な形態を知覚することになり、内なるspiritを自覚することはない。しかし贖罪はspiritをその正しい場所に復帰させ、spiritに仕える心は決して傷つくことがない。例え心が幻想(闇)に埋め尽くされたとしても、spiritは永遠に自由である。


・闇(罪)は欠乏の信念の一つであり、ここからは間違いしか生まれない。
逆に、真理は常に豊かさであり、すべてを有していると知覚し認める者はいかなる欠乏も必要も持たない。私たちは神から創造されたときすべてを与えられている。神の子としての自覚を復帰させることが贖罪の目的である。それは「すべてを有している」という自覚を復帰させることである。
あらゆる欠乏は、必ず赦しに置き換えられる。あらゆる恐れと空虚さもまた、必ず赦しに置き換えることができる。それが聖書の中の「死はない」という意味であり、イエスが死は存在しないことを実証できた理由でもあるのだ。
このように、律法を解釈し直すことによって成就するために、イエスはやってきた。律法は、正しく理解されるならば、保護だけを与える。律法の中に「地獄の業火」という概念をもち込んだのは、まだ心を変えていなかった者たちだけということを覚えておきなさい。

・奇跡を通して表明しているのは、豊かさが自分たちのものだとわかり、その豊かさを選ぶことにより、「自分から何かが奪われているという信念は放棄した」ということである。イエスにそうさせてくれる者なら誰にでも、その人のために、その人が容認する限度まで、そのことを証しすると彼は保証している。私たちがそのことを証しするということが、私たちの信念を実証し、そうしてその信念を強化するのである。






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