「神の平安」を真に望むことで、すべての夢を放棄する

「私は神の平安を望む」、これをただ口にするのではなく“本気”で言うことはすべてに値する。本気で言うことができれば、どんな時でもあなたに悲しみはない。癒されないものはいない。
神の平安を望む、と本気で言うことは
一切の夢を放棄することである。そうなれば幻想を望むことはなく、幻想を手に入れるための手段を追求することもなくなる。
神の平安を望むものは、幻想を眺め、様々な幻想の本質はひとつであり、どんな幻想も「絶望と悲惨」を手に入れるだけで、その違いは形だけだと理解している。
この言葉は、無意味な夢のかわりに永遠を求めることである。移り変わる夢は様々なものを与えてくれるように見えるが、それ自体が無であることに変わりはない。

あらゆる恥や秘密も同一のものである。

「神の平安や天国のかわりに、これが私の望んでいるものだろうか?」と問う。すべての幻想にたいして、恥や秘密にたいして、この問いが問われなければならない


神の平安を求めないならば、それは夢を求めたことになる。

夢を追い求めているように見える者たちも、神の平安を望んでいる。心からこの望みを真に願うならば、私たちは彼らが真に望むものに到達する。彼らは知らなくとも、彼らにとってその真の望みが確信されるものへと、私たち自身の意図を一つに合わせる。


神の平安こそが、自分の望む全てであると本気でいう心は、「必ず他の心とつながる」ことになる。なぜなら他の心とつながることが平安を得る方法だからである。
真に神の平安を望めば、その平安を見出す手段は「その心が理解できる形」で与えられる。どんな形を取るにせよ見間違うことはない。だが真に望まないならば、そのレッスンが学ばれる形は存在しない。

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